測れないもの、測らない方がよいもの

moriyasu11232008-12-12

北京五輪ラソン金メダリスト サムエル・ワンジル
『練習しすぎなければ』
北京五輪はまだ3回目のマラソンだったから、過去2レースと同じように走ろうとした。昨年の福岡国際と4月のロンドン。どっちも1キロ3分前後。北京も同じペースでいきたかった。慣れているペースが一番いい。
ケニア人はそれまで暑さを気にしてスローペースにしてしまったから、五輪で金メダルを逃した。ゆっくりすぎるよくないことがこれで分かった。五輪や世界選手権のペースはきっともっと速くなる。
直前練習はケニアの2400メートルぐらいの高地でやった。7、8月にかけて38キロの距離走と30キロのペース走を2回ずつ。長い距離を走った翌日は400メートルを10本か3000メートルを3本走ってスピードをチェックした。
朝食前にも15キロを走る。1キロ4分から最後は3分5秒ぐらいに上げる。「あー、いい汗かいた」っていうイメージで終わる。補強運動はやらない。クロカンのようなコースを走るだけで筋力はつく。日曜日はオフ。雨の日は休み。
仙台育英高にトヨタ自動車九州と、この夏まで6年以上、日本のチームにいた。陸上界全体を見渡して思うことは、日本人は練習しすぎだということ。タイムトライアルの日に雨が降ったら、自分は休んで晴れた日にやる。その方が記録もいいし、いい印象が残る。日本人は予定通りにやらないと心配になる。
高地練習でも低地と同じメニューをこなす。それって体に悪いよ。日本人はもともとマラソン向き。練習次第では、まだ戦える。スピードの切り替えがうまい佐藤悠基東海大)のような選手がマラソンやったら楽しみだ。
(2008年12月3日 朝日新聞

いま急速に進行している社会現象として「過剰な数値化・定量化」が挙げられる。
あらゆる人間的営為をことごとく数値化・定量化するという操作に、かつてこれほどまでに熱中した時代があっただろうか。
どのような活動についても、その「目的」と「方法」を記述し、それがどのような「効果」をもたらしたかについてevidence basedで述べよ、というようなことが求められている。
もちろん、研究というのは、そういう手続きで成り立っている。
しかし、「なんとなく腑に落ちました」「矢も楯もたまらず身体を動かしたくなりました」「とっても心地よい気分になりました」といった効果は、一体どうやって数値化したらよいのであろうか。
本来、このようなアウトカムの「本質的」な部分は、数値的・外形的に表すことができない。
しかし巷では、数値的・外形的に表示できない効果は「存在しない」と見なされるようである。外形すなわち「氷山の一角」に多くの視線が向けられ、その外形を数値によって評価することに傾注し、土台であるはずの水没部分への思慮はほとんどみられない。
昨今、子どもたちは様々な「習い事」をさせられているが、親たちがそこに要求するのは、常に「努力と成果の相関が可視化」されていることである。
子どもをスイミングに通わせている知人の話では、子どものクラスでは異常なまでに「レベルの細分化」が進んでいるらしい。
顔を水につけられたらレベルいくつ、足を床から放せたらレベルいくつ…というように、水泳の技術?が「日進月歩」する様がことごとく「数値で表される」ことを、親たちは強く要求する。
数値が変わることでしか子どもの身体能力の変化が捉えられない、という大人の観察力の欠如を誰も咎めない。
これは極めて危険な徴候ではなかろうか。
変化を測るためには、座標軸のゼロに相当する「基準点」を想定しなければならないし、相対的な変化量を確定するためには、測定の「枠組みそのもの」が変化してはならない。
だから、特に記録を競うようなスポーツでは、「身体の使い方を根本的に変える」ということに強い抵抗が働くのである。
なぜなら、身体運用の仕方を変えようとすると、一時的にパフォーマンス(記録)が低下することがほとんどだからである。
しかし、身体運用のマネジメントをするOSそのものの「書き換え」に際しては、何を測定すればよいのかが分からなくなるということが起きる。
「ブレイクスルー」とは、それまで自分が「能力」の指標だと考えていた「ものさし」が「無効」になることだからである。
変化量を「記号的・数値的に表示せよ」というルールは、「ブレイクスルー」すなわち価値評価の「ものさし」そのものに起きる「パラダイムシフト」を想定していない。
この世界の厚みや深みについて理解を深めようと思ったら、「手持ちのものさし」で全てを計測しようとする習慣を捨てなければならない。
そうでないと、「手持ちのものさし」で測れる世界から抜け出すことはできない。
ケニアンランナーのトレーニングやパフォーマンスをみるにつけ、そのような思いを一層強くするのである。
ワンジル選手の「練習次第では、まだ戦える」という言葉は、単なるおべんちゃらではない。