スポーツ文化って?
昨今話題の食品偽装問題とスポーツにおけるドーピング問題に共通点がありはしないだろうか、としばし考える。
むむむ…(考えている音)。
これらの問題には、共通するシンプルな「答え」が用意されている。その答えとは、倫理観の欠如した人間が、不当な利潤(勝利または記録に付随するものを含む)を得ようとして、敢えてルールの一線を踏み越えたというものである。
事実、マスコミは彼らを激しく指弾し、法律(ルール)もまた彼らに相当の罰を科してきたのである。
いつの時代にも、倫理観の欠如した人間はいた(いる)だろうし、詐欺まがいの商法やスポーツにおけるルール違反も後を絶たない(ついに昨日、私の実家にも詐欺電話が鳴ったらしい)。
だから、この「答え」は間違ってはいないのだろう。しかしそれは、老舗といわれるような会社や世界のトップレベルで活躍するアスリートが、次々に不祥事(違反)を起こすことの「ほんとうの答え」にはなっていないように思える。
簡単で判り易い「答え」というのは、しばしばものごとの本質を隠蔽する。これらの人間にまっとうな倫理観が欠如していたというのは、ほとんど的外れだと思う。
彼らに欠如していた倫理観は、ほとんど我々にも欠如していて、彼らが追及した様々な欲望は、ほとんど我々も共有していると考えるべきではないか。
そのように自己を相対化することなしに、これらの不祥事を根絶することはできない。問題の本質は、経営者や選手・コーチの人品骨柄とは別のところにある気がしてならない。
では、問題はどこにあるのか。
十九世紀の最後の四半世紀この方、スポーツ制度の発達をみると、それは、競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっている。…こういうスポーツの組織化と訓練が絶え間なく強化されてゆくとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容がそこから失われてゆくのである。このことは、プロの競技者とアマチュア愛好家の分離のなかにあらわれている。遊びがもはや遊びでなくなっている人々、能力では高いものをもちながらその地位では真に遊ぶ人間の下に位置される人々(プロ遊戯者)が区別されてしまうのだ。
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(byホイジンガ氏)
「プロ遊戯者」を「真に遊ぶ人間(アマチュア愛好家?)」の下に置いているところに、ホイジンガの哲学が見え隠れする。
さらに彼は、プロ遊戯者のあり方には、自然なもの、気楽な感じが欠けており、そこにはもはや真の遊びの精神はないと喝破する。
余剰利益を投機的に扱い、自分以外の他人を出し抜くことが経済の「勝ち組」の常識だとすれば(株ってそういうものでしょ)、スポーツの「勝ち組」になるために、ルールを犯してでも勝利をもぎ取ろうとする人間がいたとしてもなんら不思議ではない。
すべて遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち、許されるものと禁じられるものとを決定する。この取りきめは恣意的であり、同時に強制的であり、決定的である。…もし破られるなら、遊びは即座に終わり、違反という事実そのものによって破壊されてしまうのだ。なぜなら、遊ぼうという欲望、つまり遊びの規則を守ろうという意志によってだけ、規則は維持されているからである。
- 作者: ロジェカイヨワ,多田道太郎,塚崎幹夫
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(byカイヨワ氏)
ポイントは、人間は誰しもこのような事件の当事者になりうる可能性があるというところにある。
会社(株主)の利益至上主義、選手を取り巻く報酬に絡みつく歪んだ勝利至上主義…これらを優先すれば、この誰にでもある欲望、すなわちルール違反という欲望への点火を抑えることはできないのである。
たしかに、遊びは勝とうとする意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっとも大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として敵を信頼し、敵意なしに戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。…実際ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何がだめになったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり自分に失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである
(前掲書より抜粋)
あまねく人間文化(商売もスポーツも)は、プレイ(遊戯)のなかに、プレイとして発生し、プレイとして展開してきており、それはすべてが規則の体系であると、この二人の叡智は指摘する。
しかし、ここでいう「規則の体系」とは、プレイをプレイたらしめるために必要なものであり、違反を前提とした規制のためのものではなかったはずである。
食品の安全管理やドーピング問題においては、ルールの厳格化というベクトルの向きを反転させることは極めて難しい。
しかし我々は、本来人間文化に内在していたはずの「プレイ」の本質について根源的に問いつつ、少しずつでもこのベクトルの向きを変えることにこそ知恵を絞るべきではないのか。
そのことなくして、「スポーツ」が「文化」にはなり得ないと思われるのである。