普通の家族がいちばん怖い

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

広告代理店大手のアサツー・ディ・ケイ、200Xファミリーデザイン室室長の岩村暢子氏渾身のレポートである。
帯には「誰も口にできなかったことを表面化させている。その現実はホラーよりもホラーである(養老孟司氏)」、「『飽食』からみた家庭崩壊は二世代目のサイクルを迎えた。家族はもはや現実から虚構になった(上野千鶴子氏)」、「思いこみを捨てよ、教義を捨てよ。ここからスタートするしかない(水口健次氏)」などなど、アイキャッチのよい刺激的なテクストが踊っている。
養老氏をして「スティーブン・キングよりも怖い」と言わしめるその驚愕の内容については枚挙にいとまがないので割愛するが、私が注目したのは、その調査方法である。
岩村氏は、アンケート調査が「調査者の想定内に収まる事象の確認調査には使えるが、想定を超えた新しい変化や兆候を捉えるには有効ではない」ことから、回答内容を既定しないオープンアンサー(自由回答記述やインタビュー)による「定性調査(分析)」にこだわっている。
私が以前担当した、元一流スポーツ選手の動きのコツとその獲得過程を探るという内容のプロジェクト研究でも、自由記述中心のアンケートと半構造化面接による調査を併用した。選手の動きのコツを探るという目的からすれば、オープンアンサーや動作映像などを考察の拠り所としたのは、至極当然の判断であったと考えている。
「アンケートを取る」という調査スタイルは、手軽に定量化できるという点で汎用性も高いが、岩村氏同様、私自身もあまり信頼を置いていない。
しかし、私のところには常にさまざまなアンケートが来るし、研究の現場でも「では、アンケートを取って…」という流れになることも少なくない。
よほどこの調査方法の有効性についての信憑が根づいているのであろう。
だが、私が経験するアンケート調査は、設問のうちに調査者が求めている「答え」が透けて見えるものがほとんどである。
さらに岩村氏は、対象者の自由記述やインタビューの回答でさえも「あまり信じてはいない」と言いきる。
その理由として「近年多くの対象者が『本当にそうであること』より、『そう答えるのが正解だと感じること』を答えるようになっていること」や、「人は自分の行ったことに対して、そんなに自覚的ではない」ということを挙げている(岩村氏は、インタビュー調査に加えて、食卓の写真を撮ることを調査対象者に課している)。
人が「している」と回答することと「実際にしている」ことの間には大きな隔たりがあるという指摘だが、その裏には、8年もの長きにわたる調査のなかで、「日本古来の伝統文化(例えばおせち料理)は守らなくてはいけないと感じています」と発言する主婦が撮った元旦の食卓写真にインスタントラーメンとペットボトルしか写っていない、といった言動乖離事例との出会いの積み重ねがある。
単なる「調査」を、ある問題についての理解を深める「研究」へと昇華させたいなら、まず「自分が聴くつもりのなかったこと」を言い出す人間に出会うことが必須であり、さらにその人自身が「言うつもりのなかったこと」さえも引き出すことが求められる。
その必要性が理解できなければ、どれほどの時間を費やしても、「調査」から「研究」へと跳躍することはできないだろう。