第21回日本スプリント学会大会(その1)

moriyasu11232010-08-30

8月25〜26日、日産スタジアム第21回日本スプリント学会大会が開催された。
本務の都合上、初日のシンポジウム「中学からシニアまでトップを維持していく秘訣」にのみ参加。
吉田香織氏、清田浩伸氏、そして為末大氏が登壇(司会は児玉育美前陸マガ編集長)の豪華キャストとあって、会場には指導者だけでなくトップ選手の顔も散見された。
為末氏と吉田氏は、自身の競技ヒストリーを振り返りつつ、長く競技を継続できたポイントをいくつか挙げていたが、その多くは両氏に共通するものであった。
短い言葉で表現すれば、「環境・状況への適応(順応)力」、「走りの理論的&実践的追求」および「自らの生き方(行き方)を選び取る意志」ということになるだろうか。
為末氏が「最も強い種(者)が生き残るのではなく、最も賢い種(者)が生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できる種(者)である」というダーウィンの言を引いてプレゼンテーションを閉じたとき、不意に「不易流行」という言葉が思い起こされた。
「不易流行」は、晩年の松尾芭蕉が蕉風俳諧の本質をとらえるための理念として提起したものであり、「不易」は時代を超越して不変なるもの、「流行」は時々に応じて変化していくものを意味する。
これは、俳諧の本質的な性質を「不易(静的)と流行(動的)」という二つの側面から把握しようとしたものであるといわれるが、新しみを命とする俳諧においては、その動的な性格、すなわち変化を重ねてゆく流行性こそが「蕉風不易の本質」を意味することになる。

一度成功した人間は「そのやり方」に固執したがるが、優れた選手やコーチは「そのやり方」に固執してはならないということ、すなわち「変化の仕方自体を変化させる」ことが重要であることに気付く。
「変化の仕方自体を変化させる」ことは、自身の身体システムの「構築」と「解体」という矛盾に引き裂かれながら鍛錬(再構築)し続けることに他ならない。
そして、そのように錬磨された「身体知」でなければ、たとえ科学的で高級そうに見えるエビデンスであったとしても、ほとんど使い物にはならないのである。
(2010年1月16日 拙稿「失敗のススメ」より抜粋)

「環境・状況への適応(順応)力」は、環境を変える(環境が変わる)ことによる様々なストレスを受け、それを克服することによって培われていくものである。
為末氏は、専属コーチを付けないというスタイルを貫きながら、自身の環境を変えていくことによって、その能力を高めていったといえる。
吉田氏は、日本の女子選手としては珍しく複数(4人)のコーチに師事しているが、いずれも能動的な選択であり、これも広い意味で環境を変えながらの適応力強化ということができる。
…などと口で言うのはたやすいが、身体システムの「構築」と「解体」という矛盾に引き裂かれながら「変化の仕方自体を変化させる」というのは、それほど容易なことではない。

「対人競技」としての400mHにとって最も重要なトレーニングは、「自分よりも速い選手と(レースで)競走する」ことに尽きる。
高い緊張感のなかで、内側の選手に追い立てられたり外側の選手にあっという間に置いて行かれる、という経験を積み重ねることでしか得られない「心技体」がある。
そう考えれば、国内トップレベルの選手達が、より速い選手達に「稽古」をつけてもらう機会を求めて海外に出るのは、ある意味「必然」といっても差し支えないだろう。
だから今の選手達は、機会があればどんどん海外に出ていくべきだ、とは思う。
しかし同時に、国内を拠点として世陸&五輪でファイナリストになるという偉業を成し遂げた稀代のスプリンター高野進氏などの存在も看過できない。(…)
重要なことは、その結果はさておき、それが自分にとって「ほんとうに(心底)」必要だと思える(思わせられる)かどうかである。
(2009年8月20日 拙稿「男子400mH決勝結果」より抜粋)

スポーツに限らず、その道の熟練者になるためには「10年以上継続して1万時間を超える科学的・合理的な質の高いトレーニング」が必要であるといわれている。
そのためには、人間に行動を起こさせ、その行動を持続しながら一定の方向に向かわせることが必須となる。
すなわち、最大のスポーツ適性は「高い動機づけ」ということができるが、この「動機づけ」は大きく二つに分けられる。
一つは、外的な「報酬(目標)」により行動意欲が引き出される「外発的動機づけ」であり、もう一つは、行動それ自体が「報酬(目標)」となり意欲を引き出すよう働く「内発的動機づけ」である。
心理学的な研究結果を引くまでもなく、人は多くの欲望や関心が混ざり合って「動機づけ」られており、「外発・内発」という二分法でクリアカットできるほど事は単純ではない。
むしろ、ひとりの人間の中で「外発(的動機)」と「内発(的動機)」が追いかけっこをしているようなイメージのほうが腑に落ちる感もある。

挫折にしろ、技術的な伸び止まりにしろ、燃え尽き症候群にしろ、とにかく早い段階でいろんな事を経験し、免疫をつけていく。最後はグラウンドに一人で立つわけですから、こういったフィロソフィーがどれだけ成熟しているかが重要ではないでしょうか。(…)
(この場合)本人の動機にかなり影響されますが、それも才能の一部ですし、もしそのまま動機をもてる選手であれば最後まで貫けるはずです。(…)
結局いったい何が私を支えてきたんだということを(…)考えてきましたが、どうも「技術」の世界ではないのかなと思いました。革新的な技術、いろんな人の真似をしながらこれまで競技を続けてきましたが、流行はみんな去ってしまいました。唯一のこるのはメッキが全部はがれたコアの部分だけです。(…)重要なのはこのコアに向かう動機。これが純粋で濁りがない選手ほど生き残っています。
為末大「400mハードルのトレーニング戦略」スプリント研究 第18巻より抜粋)

日体協で行った「動きのコツ獲得」に関する研究結果によれば、競技種目を問わず、トップレベルの選手達がさらにパフォーマンスを高めるときには、必ず「新しい動きのコツ」を獲得している。
言い換えれば、トップレベルの選手といえども、というよりトップレベルの選手であればこそ「新しい動きのコツ」が獲得できなければパフォーマンスは向上しないということになる。
究極的には、新しいことや困難なことに対して、自ら工夫し、また全力で挑みながら、自身のパフォーマンスを高めていく楽しさそれ自体を報酬として(内発的に)動機づけられていくことこそが、子どもや愛好家のみならず、トップアスリート育成にとっても極めて重要なテーマであることは言を俟たない。

信じて挑んだら必ず勝てるなんて事はありません。それでも勝つのはたった一人です。だけれども、自分が諦めなかった事を自分自身で知っている人は、そこに大きなものを得るわけです。(…)
スポーツは理不尽の連続です。憧れ欲しても、自らの体の作りだけは変えられません。負けたのはそういう体に生まれたから。そう突きつけられ続けながらやるようなものです。
不公平だよねと諦める人もいます。しかし、そこで他人との比較でなく、自分の可能性を掘り尽くそうと転換する人もいます。理不尽を受け入れ、自分の人生を懸命に生きる。道の極みとは、まさしく自身しか歩けない道の極みではないかと思うわけです。
(2009年12月17日 為末大オフィシャルサイト「感動しまして」より抜粋)

『「みずから」は目的的必然性であり、「おのずから」は因果的必然性である(by九鬼周造)』
熟練に至るために必要とされる「10年(1万時間)以上の質の高いトレーニング」は、それさえ行えば誰もが熟練者になれるということではなく、熟練に到達した人間に共通するプロセスがそれだった、というのが因果のベクトルであろう。
したがって、両氏が共通して挙げた「走りの理論的&実践的追求」は、その高みに至ったアスリートが必然的に持つに至る(持たざるを得ない)志向性であり、そのプロセスで起こったできごとの全てが「必然」なのである。

総合研究の核心は「ひとり学際研究」、すなわちある問題(テーマ)設定をして、その本質を多方面から「学際的」に理解したいと願う研究者が、関連する学問分野のなかに踏み込み、その分野の知識や方法を学び、そのテーマの解明に関する限りにおいて、研究者自身の内部で「学際」を達成することにある(…)そして、この「ひとり学際」に基づいた「総合」の経験を積み重ねることによって、(…)問題状況の全体像とその構造を的確に把握する力や、解決のための企画力または問題設定力が開発される(…)
(2010年5月16日 拙稿「ひとり学際ふたたび…」より抜粋)

優れたアスリートは、少なからず「学際性(総合性)」を帯びているものである。
なぜなら、「自分の可能性を掘り尽くそうと(by為末大)」する人間がパフォーマンス向上の方法論を模索していく過程においては、この「学際性(総合性)」が必須のものとなるからである。
この「学際性(総合性)」にとって最も大切なのは「問題意識」である。
スポーツにおけるトレーニングは、まさに「ひとり学際」に基づいた総合研究であり、自身の問題意識を各論で切り刻まずに、知性と構想力によってそれを組み合わせながら、自らの身体への「問いの立て方(問題意識)」を鍛錬し続けることにその本質がある。
だとすれば、そのようなメンタリティーや志向性を育むことに人智の及ぶ可能性(余地)がいかほどあるのか…あるいはないのか…
このような難問に軽々に「答え」など出せるはずもないのでつづく…