正義(Justice)について

moriyasu11232010-08-11

『NHK記者ら特ダネ悪用 3人が株売買 監視委が調査』
職員による株の不適正取引問題で、NHKは17日、報道局記者ら3人が証券取引法(現・金融商品取引法)違反(インサイダー取引)の疑いで、証券取引等監視委員会の調査を受けていることを明らかにした。3人は、NHKが特ダネとして報じた企業の資本業務提携の情報を、原稿システム端末などを通して放送前に知り、提携する企業の株を買ったとされる。3人は売り抜けて利益を得ており、NHKは内部で調査委員会を設け、処分を検討しているという。 (…)
3人は07年3月8日、牛丼チェーン「すき家」などを展開するゼンショー(東京都港区)が、回転ずしチェーン「かっぱ寿司」などを展開するカッパ・クリエイトさいたま市大宮区、いずれも東証1部上場)と資本業務提携を結んでグループ化するとのニュースが放送される直前に、カッパ社の株をそれぞれネット取引で約1千〜3千株購入。翌日に売り抜け、10万〜40万円程度の利益を得たという。 (…)
NHKによると、3人は取材などに関与しておらず、業務上のつながりもなく、連絡は取り合っていないという。16日から監視委の任意の調査を受け、業務を離れて自宅待機中という。
NHKでは、「取材で知り得たことを個人のために利用してはならない」とのガイドラインはあるが、株取引を規制する明文規定はないという。報道局の経済部記者については、家族も含めて株取引をやめるよう部内の会議などで口頭で注意しているが、3人は対象ではなかったという。
(2008年1月18日 asahi.comより抜粋)

2年以上前の記事を拝借。
ことの顛末は「NHKでは第三者委員会の報告まで当面、当該職員の懲戒休職処分としたが、金融庁の課徴金納付命令処分が下った為、処分を早め当該職員全員懲戒免職処分にした。また当時の橋本元一会長は、任期満了となる2008年1月24日に引責辞任(by Wikipedia)」というもの。
この3人がシステム端末を通してネタを仕入れた「ニュース原稿」なるものは、放送前に約5000人ものNHK職員が閲覧するらしい。
たかが数十万円のためにNHK職員の座を棒に振るようなことはしないはずであるから、彼らにとっては日常的な小遣い稼ぎ程度の意識であり、リスクを冒しているという感覚もなかったと想像できる。
同時期に散見されたNHKの不祥事を横目に見る限り、こういう人たちが5000人のうちの3人だけで、しかも今回だけであると信じる人はまずいないだろう。
むろん、NHK職員のモラルが世間一般のそれより著しく低いというわけではなく(たぶん)、彼らの非常識と非倫理性は「世間一般レベル」であろうと思う(たぶん)。
だからこそこの一件は、現代社会におけるモラルハザードの構造を理解する格好の手がかりになると内田樹氏は言う。

彼らは「フェア」ということの意味を根本的に誤解しているのだと思う。
おそらく、彼らは子どもの頃から一生懸命勉強して、よい学校を出て、むずかしい入社試験を受けてNHKに採用された。
その過程で彼らは自分たちは「人に倍する努力」をしてきたと考えた。
だから、当然その努力に対して「人に倍する報酬」が保障されて然るべきだと考える。
合理的だ。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。
前にも書いたことだけれど、当代の「格差社会論」の基調は「努力に見合う成果」を要求するものである。
これは一見すると合理的な主張である。
けれども、「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が100%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名している。
おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。
人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。
何度も申し上げていることであるが、集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。
これを「ノブレス・オブリージュ」などと言ってしまうと話が簡単になってしまうが、もっと複雑なのである。
「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。
それが「自分自身」だからである。(…)
私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。
そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、彼らがかりにその努力や能力にふさわしからぬ過剰な資源配分を受けていたら、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。
(2008年1月18日 内田樹の研究室「モラルハザードの構造」より抜粋)

このところ、メディアでは連日「消えた老人」の話題で持ちきりである。
老人に、そして日本社会に一体何が起こっているのかと、急な異変が起きているかのようなアナウンスがそこかしこで行われ、正義感溢れる記者が歯切れの悪い市の職員に詰め寄るシーンも繰り返し再生されている。
責任の所在を属人的要素に求め、しかも最も身近なところに見つけ出して「正義の鉄槌」を食らわせてやろうと意気込むマスメディアの態度も相変わらずである。
このようなことは過去にもあったはずだが、過去統計との比較などによってこの問題構造を「科学的に批評」しているメディアの存在は寡聞にして知らない。
「批評とは、単に判定するだけで生産的でない精神的態度ではなく、熟慮であり、客観的、生産的、創造的なことを意味する(byヴァルター・ベンヤミン)」
少し冷静に考えれば、一億数千万人がひしめく国家において、全ての人々の行方を自治体が完璧に把握していることのほうが不思議というより気味が悪いと言えなくもない。
例えば、住基ネットの導入に反対した人々の多くは、そのような社会を住みにくいと感じたのではなかったか。

「父は家を出て行ったきり会っていない」「消息は分からないが母は弟のところにいるはずだ」
親への言葉とは思えない薄情さには驚かされるが、家庭や親子関係の事情は他人のわれわれには分かるすべもなく、常識という不確かなモノサシで茶飲み話として推し測るしかない。
そこでついつい、いつものように、このような社会をつくりだした下手人は誰だということに話は向かうのだが、この下手人探しこそ骨が折れる。
あえていうなら、筆者を含めた戦後世代の大人たちが、濃密な近隣関係を嫌って、プライベートな楽しみを重視したツケがまわってきていると見るべきかもしれない。
もちろん、そこには経済重視の政策や、テレビ、パソコン、携帯電話の普及など、人と人の絆を切り離す数々の要因を見つけ出すことも可能だろう。
100歳以上の所在不明者が続々と判明し、多少、平均寿命の信憑性に疑問符はついたが、日本が長寿大国であることには変わりはない。
いかに老い、いかに病を得て、いかに死すべきか。人の幸せを考えるうえで、その観点を避けては通れない時代となった。
国の社会保障、福祉政策にも、いくばくかの人生の哲理が求められよう。
(2010年8月5日 永田町異聞「行旅死亡人という名の日本人」より抜粋)

「消えた老人問題」の本質は、社会的弱者に対する想像力の欠如にあると思われる。
効率と成長を求める社会にとって、社会的弱者は厄介な存在でしかない。
現在の管理社会を維持していくために、例えば身内に不幸があったときに、どれほど多くの事務手続きや作業が必要となるのか。
百歳以上の老人に代わってそれを行なわなければならない家族もまた、八十歳前後の老人なのである。
彼らが、書類の書き方が分らず、そもそも送られてきたものが何であるかの判断がつかず、届出をしないままいたずらに時が経過したとしても不思議ではない。
あえていうなら、と前置きされた「筆者を含めた戦後世代の大人たちが、濃密な近隣関係を嫌って、プライベートな楽しみを重視したツケがまわってきている(by新恭氏)」という指摘を、我々は何度も噛みしめる必要があるだろう。

『いま正義について考えることの意味』
正しい行いとは何か。この問いがなぜ現代に必要なのか。(…)
「1人殺せば5人が助かる状況だったら、君ならその1人を殺すか」
「日々の君の行いは正しいのか、正しくないのか」
ハーバード大学教授のマイケル・サンデル(57)は問う。現代人が真剣に考えなくなった問いだ。
サンデルがこの「Justice(正義)」と名づけた講義を始めたのは、30年前の1980年。同大の学生が哲学と道徳の問題に興味を持ち、政治に積極的にかかわる市民に育つように、という思いからだった。(…)
■威圧的だった政治哲学
サンデル自身は大学1年生で政治哲学を専攻し、「全く意味がわからなかった」という。実際の政治とはほとんど疎遠にみえ、難解で、威圧的でさえあった。「自分が受けたい授業はこれではない」。それが後に「正義」講義をデザインするきっかけとなった。哲学者が考察し、記したことを、現代の日々の生活にある倫理的なジレンマに置き換えて学生に質問し、哲学者は「過去」に属するものではない、と訴える手法だ。
■哲学者が批判の対象
ではなぜ「正義」がテーマなのか。小中学校で習う「道徳」とどう違うのか。サンデルはこう話す。
「道徳は必要なものだが、正義はさらに、社会的な生活に直接つながる道徳の一つで、人々が互いにどう生きていくのか倫理上の決断をしていくこと」
つまり、正義とは道徳的な生活に必要な判断力で、誰もが必要とする能力だという。(…)
■GDPを超える価値
サンデルは講義でも、著書『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』(早川書房刊)でも、あまり自らの意見を語らない。
「授業中のサスペンスや興奮がなくなってしまうから」というが、学生とのやり取りのちょっとした言葉に、彼の主張が浮き出てくる。
例えば、「正義が存在する社会は、必ずしも国内総生産(GDP)が高い国ではない」という主張だ。前出の著書『これから〜』では、1968年に民主党の大統領候補指名を目指し、暗殺されたロバート・F・ケネディに触れている。彼の68年3月の演説を引用し、彼が生きていれば、「道徳性豊かな政治」が実現していたと予想する。
「GNP(ママ)には子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。(中略)われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてだ」(演説から)
サンデルは言う。
「彼にとって、正義は国民総生産の規模と分配以上のものを含んでいた。より高い道徳目的にも関連していたのだ」
サンデルにとって、健全な民主主義政治とは、道徳が生かされた政治ということになる。それが「正義」講義の原動力だ。
「私は、学生にGDPを超えたところにある『価値』について考えてほしい。日本でも、米国でも、欧州でも政治家や政党に対する欲求不満が募っているのは、私たちが真に大切だと思っている社会的な正義について話し合っていないからだ」
多くの民主主義国家の企業トップが莫大なボーナスをもらう一方で、なぜ貧富の差がこれほど広がっているのか。繁栄から得られる利得をどうやったら分配できるのか。
オバマ大統領に注目
その中で、オバマ大統領には、故ケネディ以来の政治家として着目している。
「大統領選挙の間は、政治と、それを超える価値や意味を結びつける能力がある政治家として、有権者を感動させた。大統領就任後は、道徳的な声を潜めているが、市民の理想を政治にもたらす方法を彼はよく知っている」
無保険者の救済を主眼にし、約100年ぶりに実現にこぎつけた医療保険制度改革は、オバマ大統領個人の思想と、米国独特の個人主義や政治不信の衝突だった。
「病気にかかったときの負担を、みなの責任としてシェアすべきかどうか。これは、根本的に倫理上の問題であり、誰もが考えるべきなのに、米国の伝統的な個人主義は、誰がその金を負担するべきかという議論に持っていってしまった。政府は社会的な責任をシェアするという思想を実現するツールという位置づけになるべきなのに」(…)
日本では「正義」という言葉は古臭くも聞こえるが、混迷する政治の世界を再考するきっかけがサンデルの講義にはある。日本で「正義」に新しい衣を与えられるだろうか。【津山恵子】
(2010年8月9日 「AERA 8月16日号」より抜粋)

この講義は、1980年からほぼ1年おきに開かれ、延べ1万4千人超の学生が聴講しているようである(冒頭写真)。
サンデル氏が掲げる「正義」というテーマをやや敷衍すれば、スポーツにおける「フェアネス」の問題にも通底する。
スポーツ政策にも、「いくばくかの人生の哲理(by新恭氏)」が必要となるはずである。
そのためには、「問題」を遠くから傍観するのではなく、自分に引き寄せて「思考」しなければならない。
「政治家や政党に対する欲求不満が募っているのは、私たちが真に大切だと思っている社会的な正義について話し合っていないから(byサンデル氏)」
サンデル氏の講義に、多くのヒントが隠されているような気がする(昨日からBShiにて放映中)。