グーグルブック問題

moriyasu11232009-05-01

大修館書店から「グーグルブック検索和解に関するお願い」と題した文書が送られてきた。
Google社とアメリカ作家組合および出版社協会会員社との和解が成立した結果、日本の著作権者たちも著作権にかかわる選択をしなければならないことになったようである。
今さらながら、日本の著作権者の端くれであったことに気づく。
ただし、著作権料の振込によって個人口座の総額の変化に気づくことはほとんどない(むむむ)。
せっかく?なので大修館書店から出版されている書籍を紹介する。

競技力向上のトレーニング戦略

競技力向上のトレーニング戦略

身体運動のバイオメカニクス研究法

身体運動のバイオメカニクス研究法

  • 作者: ゴードンロバートソン,ジョセフハミル,ギャリーカーメン,ソーンダーズウィトルシー,グラハムコールドウェル,D.Gordon E. Robertson,Saunders N. Whittlesey,Graham E. Caldwell,Gary Kamen,Joseph Hamill,阿江通良,木塚朝博,川上泰雄,森丘保典,宮西智久,藤井範久,榎本靖士,岡田英孝
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2008/04/01
  • メディア: 単行本
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和解条件とは、2009年1月5日以前に出版された書籍については、1)著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合、どの程度かを決める権利をもつ、2)Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入その他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取る、というものである。
Googleは、その代償として著作物の表示使用の権利を確保し、個人には有料、公共図書館教育機関には無料でアクセス権を頒布することができる。また、「プレビュー利用」として書籍の最大 20%(隣接する5ページを超えない)までの無償閲覧や、「スニペット表示」として1単語の検索で1書籍につき最大3∼4行程度の抜粋表示が可能となる。
これに対して、日本の著作権者たちは、以下のいずれかを選択しなければならない。
(1)「和解」に参加し、Google社による使用を全て認める。
(2)「和解」に参加することを拒否する(選択期限は5月5日)
(3)「和解」に異議申し立てをする( 〃 )
(4)「和解」を拒否せずに参加し、Aその後、表示使用から除外する、Bその後、データベースから削除する。
大修館書店からの送付文書には、(4)のBを選択したい旨が記載されている。
もちろん全てお任せするつもりである(任せてくれと書いてあるので…)。
たとえ意見しても、私のような場末の著者の意見は入れられないだろう(するつもりもないので…)。
この問題の揉めどころ?は、恐らく「プレビュー利用」による最大20%の無償閲覧機能である。

『グーグルの書籍DB化、谷川俊太郎氏・倉本聰氏ら和解拒否』
インターネット検索大手の米グーグルが進めている書籍のデータベース事業を巡り、米国の作家らが同社と和解した問題で、詩人の谷川俊太郎さんや脚本家の倉本聰さんら日本の著作権者174人が和解を拒否し、現段階で作品をデータベースに載せないよう求める趣旨の通知を同社に送ったことが24日、わかった。
同社は世界中の作家に対し、データベース化に同意した場合には事業の収益の一部を支払うと説明していた。拒否した日本の作家たちは、今後、独自に同社と著作権の交渉を行うことになる。
グーグルに通知したのは、著作権管理団体「日本ビジュアル著作権協会」(東京都新宿区)の会員の作家ら。谷川さんや倉本さんのほか、絵本作家の五味太郎さんや小説家の三木卓さんらも含まれている。
(2009年4月25日 読売新聞)

日本ビジュアル著作権協会は(2)を選択したということになろうか。
読める部分が「隣接する 5ページを超えない」「最大20%」とはいっても、短編小説、コラム、詩、短歌、俳句の類なら作品の全体を無償で読めることになり、著作権者が不利な立場におかれる可能性がある。
谷川俊太郎氏や五味太郎氏が、和解を拒否したくなるのも無理はない。
ネット上での書籍閲覧が可能になった場合のプラス面とマイナス面は何か。
プラス面は、いうまでもなく、今まで図書館などに足を運ばなければ閲覧できなかった本が、ネット環境さえあれば閲覧可能になるということである。
マイナス面は、これもいうまでもなく「本が売れなくなる」ということにつきる。著作権者の立場としては、個人の読者による購買はもとより、図書館などの買い控えも心配されているのであろう。
しかし、「本」というメディア・パッケージには、PCやケータイがどんなにあがいても崩すことができない牙城がある。

多読術 (ちくまプリマー新書)

多読術 (ちくまプリマー新書)

知のコンテンツは、メディア・ビジネスと知的所有権の溝にさいなまれつつあるということ、いや、あえて恐ろしくいえば、「知」はこれによって「知の通貨」に向かいつつあるということです。
これはね、「知」がどんどん平坦化する予兆です。コンピューターにいくら大容量の情報が入るといっても、それを画面に表示するには順に出すしかありません。キーワード検索すれば、たいていの情報は出てくるものの、それもアクセス・ランキング数などに頼って出てくるだけです。ということは、いつのまにか「知」もそういう順でしかユーザーにやってこないということになりかねません。
このような懸念がないのが「本」なんです。書物は1冊ずつがメディア・パッケージで、とりわけそのコンテンツはほぼ大半の本が「ダブルページ」(見開き)になっている。機種ごとに異なるということがない。それが一千年以上続いているわけです。そして、この「ダブルページ」が、十冊、千冊、数万冊に向かえる「窓」なんですね。これはとうていPCやケータイには無理です。
(by松岡正剛氏)

そのことを理解している読者は、「無償テクスト」へのアクセス拡大が、「有償テクスト」の生き残りに必ず不利に働くという考え方に、直ちに同意はしないはずである。
よく「青空文庫」を利用する。
ここには、死後50年が経過して著作権保護期間がとけた作家の作品が、デジタル情報として無償公開されている。
ちなみにここでも、著作権に関する攻防が繰り広げられている(頑張れ!青空文庫)。

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

いま耽読中のこの本は、青空文庫で「無償のテクスト」を一読し、それでもなお「有償のテクスト」として蔵したいという欲望を抑えきれずに購入したものである。
もちろん著者の死後50年が経過した旧刊本と、できたてほやほやの新刊本とでは、無償公開によって受ける影響の質が異なるというご指摘もあるだろう。また「ネット公開されているなら購入しない」という方も一定数はおられるだろう。
それでも、無償でテクストに触れる機会が最大化されることについては、あえて「賛成」の立場をとりたい。
理由は、私の職場や自宅の本棚に並べられた書籍の中には、「無償で読めるテクスト(絵本)」から「有償でも私蔵したいテクスト(絵本)」への転換によって購入に動機づけられたものが少なくないからである。
例えば、先の谷川氏編集の詩集や(ネット上の無償テクストによって…)
祝魂歌

祝魂歌

五味氏の絵本(図鑑)も(小児科待合室の無償閲覧?によって…)
五味太郎・言葉図鑑 全10巻

五味太郎・言葉図鑑 全10巻

それに該当する。
これらは、「無償テクスト(絵本)化」されていなければ、私蔵されることのなかった本である。
もちろん、ネット通販などでほとんどタイトルだけを頼りに購入した本もある。
それらの中には、実際に書店やネットでさわりを読めたとしたら、購入には至らなかったであろう本も少なくない。

原理的に言えば、「無償で読む読者」が増えれば増えるほど、「有償で読む読者」予備軍は増えるだろう。
だから、ネット上で無償で読める読者が一気に増えることがどうして「著作権者の不利」にみなされるのか、私にはその理路が見えないのである。
ネット上で1ページ読んだだけで、「作品の全体」を読んだ気になって、「これなら買う必要がない」と判断した人がいて、そのせいで著作権者に入るべき金が目減りしたとしても、それは読者の責任でもシステムの責任でもなく、「作品」の責任である。
内田樹氏ブログ「読者と書籍購入者」より抜粋)

なるほど…
テクノロジーの進歩は、その代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
印税で生計を立てることの困難性は、利便性を提供するテクノロジー導入の代償として受け容れざるを得ないのではなかろうか。

私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌を取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。(…)いくら考えても偶然の結果である。この偶然が壊れた日にはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。私ばかりじゃない誰しも芸術家である以上はそう考えるでしょう。(…)
芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵えもしない。至って横着な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。(…)
直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死するよりほかに仕方がない。己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。(…)
夏目漱石道楽と職業』より抜粋)

音楽や芸術で生計を立てることを望む人は多いが、その多くはそれを実現できていない。
だから「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけがその「道楽(by夏目漱石)」をやり続ける。

もし著作物が一人でも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのが本当なら、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。
と言われて「はい」と納得できる書き手がいるであろうか。
ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。
本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。
内田樹氏ブログ「読者と書籍購入者」より抜粋)

ものを書く人間は、少なからず「言いたいこと」があり、それを「人に伝えたい」と思っているはずである。
私がいま、深夜にカチャカチャとキーを叩いて愚にもつかない内容を認めているのは、「ちょっと思いついたこと」を「テクスト化する」という脳トレ&備忘録的な目的もあるが、やはり書いたからには「誰かに読んでもらいたい」と思うのが人情である。
だから、寺田さんサイトでご紹介いただき、アクセス数が増えると素直に嬉しい(ありがとう寺田さん&みなさん)。
「より多くの人の目に触れて欲しい」という物書きの本質的な動機づけは、例えばトップアスリートもスポーツ愛好家も自己記録を更新すれば嬉しいのと同じように、書いたもののレベルや報酬の多寡にはおよそ関係がないと思われる。
無論、私ごとき者の拙稿と、至高のクオリティを備えた文芸作品とは比べようもないし、内容の一部無償公開によってその文化的価値が毀損されるのであれば見過ごすわけにはいかない。
いずれにせよ、このシステムの評価については、中長期にわたるリアルな分析結果を待つよりほかあるまい。