トップアスリートの育て方(その2)

moriyasu11232009-02-26

「ナショナルコーチ」制度、文科省が新設 五輪メダル量産へ 世界のレベル分析
五輪でのメダルを量産しようと、文部科学省が、海外の競技レベルや選手育成方法を分析して戦略的に指導する「ナショナルコーチ制度」を新設する方針を固めたことが25日、分かった。東京都が立候補している2016年の五輪に向けたレベル強化策の一つで、平成21年度予算の概算要求に関連経費12億5000万円を盛りこむ。
ナショナルコーチは、五輪に向けて各選手の出場大会を厳選するなど、技術的な指導を超えて総合的な戦略を構想し、現場の監督やコーチを統括する指導者。メダル圏内の有望競技を選んで、現在の専任監督・コーチとは別に新任する。
日本オリンピック委員会JOC)からの要請を受けた方策で今後、JOCと協議しながら具体案を詰める。処遇を安定させるため、国が報酬のうち一定の割合を補助し、JOCが支払う方式も検討する。
北京五輪で日本のメダルは計25個。「金メダル2けた以上、総メダル30個以上」の目標には届かずアテネより12個減ったが、8位までの入賞者は計77人でアテネと同数だった。文科省は「メダルが取れるかどうかは紙一重。単なる“熱血指導”にとどまらない戦略的なレベル強化が重要だ」としている。
(2008年8月26日 産経新聞
※写真と記事は無関係です(念のため)。

前回エントリーの続き。
四つ目のテーマは、「なぜ指導者は“学ぶ”必要があるのか?」。
指導者の方々に向けたの講演なので「指導者は…」と書いたが、選手も研究者も“学ぶ”必要があることは言を俟たない。
パターン認識」という推論法がある。
これは、例えば私たちが「A」を見て「これはアルファベットのエーだ」とか「(`ヘ´) 」をみて「怒っている顔だ」と認識する心の働きのことである。
レントゲン写真の僅かな陰影を見逃さない医師の診断能力も、この「パターン認識(力)」に依拠している。
パターン認識を支える情報処理には、大まかには二つのベクトルがある。
ひとつは、与えられた形の部分的な特徴から候補を絞っていきながら(例えば「A」という文字であれば、斜め棒が1本…2本…横棒が1本…斜め棒の上だけが繋がっている…など)最終的に「これしかない」と絞っていくやり方である。
これは、感覚的な処理を「下」、認識の中枢である脳の高次な処理を「上」に見立て、「下から上へ」という意味で「ボトムアップ処理」と呼ばれており、主に科学者がデータを元に原因を探索する時に用いる推論法といえる(帰納的推論)。
もうひとつは、文脈情報や知識といった既有知識に基づいて候補を立てつつ補完するような、脳の高次処理に依拠する「上から下へ」、すなわち「トップダウン処理」と呼ばれる推論の仕方である。
この処理により、コンピュータでは未だに難渋している崩れた字体の認識や、誤字脱字を含んだ文章を理解することなどが可能となる。これは、主に現場で瞬時の状況判断が求められる選手や指導者の推論法といえる(演繹的推論)。
コーチング(トレーニング)は、指導者(選手)が、知識や経験を総動員しながら、パフォーマンスを高めるための必須条件について「推論」し、それを具体的な日々の「実践」に落とし込んでいく作業である。
その意味で、ある種のパターン認識といえなくもない。
ときにボトムアップ処理に重きを置きすぎて大魚を逸したり、トップダウン処理が強すぎてミスを犯したりすることもあるが、いずれにせよボトムアップトップダウンを柔軟に組み合わせて「推論」しているというのが人間のパターン認識であり、コーチング(トレーニング)でもある。
また、自身の「推論」そのものを疑うという「思考の原理」というものがある。
この現象学的な思考原理は、「客観的」にみて「正しい」トレーニングやコーチングの存在を前提しない(判断停止)で考えることにある。

私の競技人生で核となっているものは(…)必ず速く走れる方法があるという追求です。これは道を求めるときにはすごく重要なことですが、同じくらい重要なのは、矛盾するそれと同じようにゴールには永遠に到達できないということ、それをアスリートは感覚として持つことが重要だと思います。(…)
ゴールを定めたようで定めていないような、先を見ているようで足下を見ながら進むようなそんな風に感じています。
為末大「400mハードルのトレーニング戦略」スプリント研究 第18巻より抜粋)

「矛盾」とは、つじつまが合わないという意味ではない(そういう意味もある)。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」は両立しないが、この「矛盾」に耐えなければ武具の進化もない。
優れた矛の存在無くして、優れた盾は存在し得ないのである(むろん逆もしかり)。
ボトムアップトップダウンによる推論の「確度」を高めることと、その推論そのものを「疑う」という「矛盾」が、自身のコーチングへの「確信」を深めていくことに繋がる。
この「半信半疑」状態を、より質の高いものにするためには、自身の理論と実践の往復、すなわち「学び」続けるよりほかに道はない。
そういう指導者を、我々は「優れた指導者」と呼ぶのである。
最後のテーマは、「ほんとうに指導者(コーチ)は必要なのか?」。
いわゆる「パーソナルコーチ」のいないトップアスリートに関わらせてもらった経験は、常にこの問いを頭の中に巡らせる。
形式論理学には、形式論理と我々の推論の「ずれ」に関する指摘がある。
「Pならば(→)Qである」という前提条件が示されたとき…
「Pである→Qである」は肯定式、「Qではない→Pではない」は否定式の推論として妥当であるが、「Pではない→Qではない」は前件否定の錯誤、「Qである→Pである」は後件肯定の錯誤という非論理的な推論ということになる。
わかりやすいのは、例えば「Aさんと結婚する(P)→必ず幸せになれる(Q)」という前提条件があったときに「Aさんと結婚した。だから幸せである」「不幸である。だからAさんとは結婚していない」は妥当な推論であるが、「Aさんと結婚していない。だから不幸である」「幸せである。だからAさんと結婚している」というのは非論理的な推論という例である。
改めて説明するまでもないが、Aさん以外の人と結婚しても幸せになるチャンスはいくらでもあるからである。
指導者と選手の関係もこれに似ている。
「優れた指導者(P)→選手を強くする(Q)」という前提があったとき…
「指導者が優れている→選手は強くなる」「選手が強くならない→指導者は優れていない」は妥当な推論である。しかし、「指導者が(優れて)いない→選手が強くならない」「選手が強くなった→指導者は優れている」というのは非論理的な推論となる。
特に最後の推論は、斯界でもよく耳にする「錯誤」である。
しかし、形式論理学上は「指導者の存在は選手の優劣に影響するが、選手の優劣は指導者の存在に依拠しない」というのが「妥当な推論」なのである。

コーチに全幅の信頼を置けるなら、例えば私のこの二年間のような失敗をコーチが経験していたならば、その指示をもとに対応できるからです。同じような局面は二度と来ませんが、それでも何か似通った状況は訪れます。過去の経験を組み合わせて、対応を考えてくれるのは非常に強みで、いくら個人が客観性を増したところで他人の客観性には敵いません。ですから外から見ている経験がある人がいるのは非常に強いと思います。
ただし、もし全幅の信頼を置ける、自分の選択よりも常に正しい選択をする人間が指示をしてくれていたら、これは正しい失敗の機会を奪ってしまうことになります。痛い目をみない失敗は、そのほとんどが忘れ去られてしまいます。あまりにこの期間が長くなってしまうと、様々な失敗を、自分が対応できた類と考えず、チームのコーチの、ゆくゆくは組織の問題だという領域に持ち込みがちです。なぜなら自分で選択している感覚が薄れるからです。
いいコーチがつく弊害はこの部分にあるのではないかと、私は思っていました。
(2008年12月9日 為末大オフィシャルサイト「コーチング論」より抜粋)

斯界では、「稚拙なコーチング」の「害」は、耳をふさいでいても聞こえるくらいに大声で、かつ頻繁に語られている。
しかし、選手の口から「優れたコーチング」の「弊害」について語られたことは寡聞にして知らない。
現役時代の山崎氏に「指導者をもたない理由」を尋ねたことがある。
その答えは「スランプの時代(世界陸上でファイナリストになる前)からの自分をよく知っている指導者がいれば(考えないでもないが…)」というようなニュアンスだったように思う。
それを受けて「そういえば、五輪前の個人合宿に尾梶博先生(武南高校時代の恩師)が同行していたことあったよね?」と切り出し、今は亡き先生の思い出話になったのを覚えている。
いみじくも為末選手の「コーチに全幅の信頼を置けるなら、例えば私のこの二年間のような失敗をコーチが経験していたならば…」という一文にも繋がる話である。
短期的にみれば、恐らく「指導者をつける」という選択がパフォーマンスを高める確率は低くない(もちろん「優れた指導者」という前提で…)。
けれども、選手として「一時の失敗」を免れた代償に、「(失敗は)成功の元」をつかむ機会を逸したとすれば、これは算盤に合わない。
無論、算盤に合わないかどうかは、その算盤の「機能」にもよる。
単に目前の大会での成績や記録、あるいはそれによって得られる様々な報償(報酬)に照準された算盤は、それに近づくために最も効率のよい「損得勘定」をする。
しかし、目的地に早く辿り着くために車のアクセルを踏めば、視野が狭まり景色に目を向ける余裕がなくなるのと同じように、もたらされた恩恵と等量の何かを「必ず」失うことになる。
多くの人は、その「遺失」に気がついていない。あるいは、確信犯的にそれを「無視」している。
「人生は速度をあげるだけが能ではない(byガンジー)」。
「指導者をもたない」という選択は、二人のトップアスリートが、長期的な視野で計算可能な機能を持つ算盤で弾き出した、リアルな「損得勘定」なのである。
指導者(コーチング)の究極の目標は、恐らく「指導者のいらない選手」を育てることにある。
同時にそれは、「完全無欠の指導者(コーチング)」というものが、原理的に存在しないことを意味する。
これは「無限大(∞)」の存在に似ている。
「無限大」という概念は確かにあるが、それは数えきることができない。
それは数えれば数えるほど我々から遠ざかるが、数え続けなければ近づくこともできない。
「正解のない問い」は、その「答え」を掴もうとする高い動機づけが継続されるほど、「答え」に近づくことができるというかたちで構造化されている。
そのことを感得する必要があるというのが、コーチをもたない(もたなかった)二人のトップアスリートからのメッセージではないだろうか。
恐らく指導者は、目の前の選手が「指導者のいらない選手」になるために、常に自分の無知を戒め、その存在意義を自問しながら、「自立と依存」「強制と放任」「成功と失敗」といったコーチングのアポリアに引き裂かれ続けるよりほかないのだろう。
畢竟、指導者というのは、たとえ選手がパフォーマンスを高め、よい成績をあげていたとしても、永遠に自己肯定できない存在なのかもしれない。
というようなことをお話しした(ような気がする)。
関係者の皆様、ありがとうございました。