走り込みトレーニングは必要か?

moriyasu11232008-11-05

『絹川1万V世界選手権A標準も突破』
<陸上:新潟ビッグフェスタ>◇13日◇新潟・東北電力ビッグスワンスタジアム
19歳の絹川愛(ミズノ)が31分23秒21で優勝して自身の持つジュニア日本記録を更新した。福士加代子(26)とのマッチレースに競り勝ち、来夏のベルリン世界選手権の参加標準記録A(A標準=31分45秒)も突破した。
昨夏は女子高生ながら大阪世界選手権代表に選ばれるなど大活躍だったが、今年は原因不明のウイルス感染症に冒されて北京五輪への道を断たれた。レースに復帰した9月20日から1カ月足らずで完全復活を果たし「世界へ向けて前進できた。これで自信になった」と笑顔を見せていた。
(2008年10月13日 日刊スポーツ)

記事にもあるように、絹川選手は9月20日鴻巣ナイター女子3000mで復帰後初レースに臨み、9分11秒61の好記録をマークしているが、このときに絹川選手のコーチである渡辺高夫氏(以下渡辺コーチ)にインタビューした内容が、寺田さんサイトに紹介されている(9月21日記事参照)。
ちなみに渡辺コーチは、私がまだ某埼玉県立高校の陸上競技部員であった約20年前(1987年)、同級生の巽博和氏、山本正樹氏、佐藤善徳氏らのエリート軍団を要して都大路に挑み、当時の高校最高記録(2:05:57)で念願の初優勝を遂げた埼玉栄高校男子駅伝部監督である。
スピードランナーを長距離選手として育てる手腕には当時から定評があったが、その後の指導者としての活躍(埼玉栄→MDI→日清食品仙台育英→絹川選手の専属コーチ)については、改めて説明するまでもないだろう(北京五輪男子マラソン優勝のワンジル選手も仙台育英時代の教え子)。
以下、寺田さんサイトからの抜粋を中心に、絹川選手復活までのプロセスについて検証してみたい。
絹川選手は、昨年11月に原因不明の痛みが体のあちこちに出始め、風邪のような症状も頻発。12月には右大腿骨の疲労骨折も見つかった。また、2月初旬には左大腿やひざまで悪化させ、ひどいときは100mを歩くことさえ困難だったという。
様々な治療を施しながら、6月あたりからやっと水泳&ジョッグができるようになり、7月にはジョッグの時間を40〜50分まで伸ばす。
さらに東北地方の山々を転々としながら、2〜3時間の山歩きを敢行する。リハビリが最優先、下半身強化がその狙いであったようだ。
その後、8月中旬に1000mのタイムトライアルを行ったところ、本人もビックリの3分10秒走破。9月に行った北海道合宿では、1000m6本を3分15秒設定で行い、すべて3分10秒を切る。さらに最終日の4000m−2000m−1000mは、大阪の世界選手権前を思わせる走り(by渡辺コーチ)で、最後の1000mは3分2秒であがったそうである。
そして、前日の1000mを2分57秒であがったため、当初3分10秒だったペース設定を3分05〜06秒に変更し、結果的に9分11秒で走りきったというのが鴻巣ナイターまでの道のりの概要である。
さらにその1ヶ月後に、ジュニア日本記録の更新と世界選手権参加標準記録A(A標準=31分45秒)を突破するに至る、というのが冒頭の記事である。
鴻巣レースの後の渡辺コーチの発言(抜粋)を以下に示す。
「クロカン効果というのはあると思う。山歩きも後半は、途中で走ったりします。特に上りがポイントです。クロスカントリーをやることで、トラックに匹敵する心肺機能や、脚筋力が養成でき、バランスが良くなる。その間、トラックのスピード練習はやっていませんが、効果は絶大だと思います。」
「道路の距離走をやらないと駅伝やマラソンを走れない、という日本の考え方は捨てないといけないでしょう。夏に故障で走れなくても、クロカン、山歩き、水泳をやって箱根駅伝を走れている選手はいると思いますよ。」

リディアードのランニング・バイブル

リディアードのランニング・バイブル

自然の中では、人はもろもろのプレッシャーから解放され、地形の変化に導かれて走る。自然の中のトレーニングでは、正確なタイムも取れないので、その日の体調やトレーニングに従って、スピードを緩めたり速めたりできるし、もうヘトヘトというより、心地よい疲れを感じるようなペース配分を維持しやすくなる。そのペースはしばしば最高安定状態に近いペースであったりするのだが、道路で走るのよりずっと楽に、心理的にはリラックスしたまま、そのレベルまで体を追い込めるのである。
(byリディアード氏)

以前、福岡国際マラソンで8位と惨敗した藤田敦史選手(富士通)が、約2ヶ月間の調整トレーニングで別府大分マラソンに出場し優勝をかっさらってしまったときにも、これは日本長距離界を揺るがす大波になるかも知れないと密かに期待したが、海はほとんど凪いだ状態のままだった。
このような事例は結構あって、実はトレーニングの本質を突いていると思うのだが、残念ながらあまり大きくは取り上げられていない。
その裏には、今回の絹川選手のような事例を「マイナスからの復帰」を前提とする処方による成功例として捉え、「もっとやれれば(走り込めれば)さらに成果はあがったに違いない…」という根強い信憑が恐らくある。
しかし、恐らく渡辺コーチは、もう少し別の意味で、ある種の確信を抱いているに違いない。
むふふ…っていう感じで(?)。

1957年、フィンランドのサルソラが1500mの世界記録(3分40秒2)を樹立したとき、彼はいつも45分から50分かけてアップをしていたのだが、その日はちょっと違っていた。というのはレース前、彼は競技場近くのホテルで休んでいたのだが、彼を呼びに来るはずの人がそれを忘れてしまったのである。
スタート7分前、選手がフィールドに招集されたとき、ようやく関係者はサルソラがまだ来ていないことに気付き、大あわてで彼を呼びに行ったのだ。それで、サルソラは気が狂ったようにあわてふためいてトラックに駆けつけたが、彼にはいつもと同じようなウォーミングアップをする時間はない。幸い、それまでベッドに横になっていたから体は十分温まっていたので、彼は2、3回ウインドスプリントをしただけでスタートに付いたのである。
そして彼は世界記録で優勝したのである。
レース後、彼は「もし、いつも通りのウォーミングアップができていたら、いったいどんなにすごい記録になったことか」ともらしていた。しかし、その後、彼は、それまでのように長々とウォーミングアップしていたにもかかわらず、二度とあのように速く走ることはなかったのである。
(前掲書より抜粋)

19世紀末に、光学顕微鏡の解像度では不可視の感染粒子(ウィルス)の存在を証明したのはイワノフスキーであるが(by福岡信一氏)、彼は見えないウイルスの存在を仮定しないと「話のつじつまが合わない」ことを証明した。
「手持ちの度量衡」では考量できないものの存在を想定しないと「つじつまが合わない」場合には、その存在を仮説的に想定して「次につじつまが合わなくなるまで」使い続ける。
このような態度を、本来は「科学的」と呼ぶのだろう。
エビデンスベースドだけが「科学」ではない。
北京五輪におけるマラソン日本は、手持ちの度量衡の脆弱さを図らずも露呈した(と感じている)が、果たしてこの経験をどのように今後に活かしていくかに注目してみたい。
蛇足であるが、先日引退を表明した高橋尚子氏が、ベルリンで世界最高記録をマークした1週間後のシカゴマラソンを走ろうとしたり(関係者の反対にあって挫折)、1シーズンで3つのマラソンを走ろうとしていたのは、あるいはマラソンを特別視する斯界に再考を促す意味もあったのかも知れない。
もし実現していれば(特にシカゴ)…と思うと、彼女の引退は二重の意味で「残念」である。
こういう事例については、もっと深く読み解く必要がある。