正しいとはどういうことか2

moriyasu11232008-11-13

月曜日の21時過ぎに帰宅したら、妻がTVタックルを観ていた。
ヤンキー先生がちらっと見えたので、おそらく教育問題を語るという企画であろう。
最近、この手の番組を視聴する気がどうも起きない(昔は毎週観ていた)。
観なくなった理由はよく分からないが、恐らく面白いと思えなくなったからだろう(当たり前か…)。
妻の許しを得て録画に切り替えてもらい、子どもたちがきゃっきゃと遊んでいるのを眺めながらの遅い夕食に興じた。
一番搾りのとれたてホップは、フルーティな感じでなかなか旨い。
その夜、夢枕にフッサールが登場し「面白くないからといって番組を視聴しないのは現象学的還元にもとる行為である」と叱られる(嘘)。
したがって、本日その続き(録画)を視聴する。
おお、ヤンキー先生が、眉間にしわを寄せている(さすがは元ヤン)。
そのヤンキー先生日能研の理事長が「日本の教育をダメにしたのは日教組だ」と口角泡を飛ばしている。
ふ〜ん、そうなのか。
で、「ダメ」というのは一体どういうことなのだろう。
恐らく、彼らを含めた出演者は「日教組が日本の教育をダメにしていた」時代に学校教育を受けた人たちに違いない。
もし本当に、日教組のせいで日本の教育がダメになったというのなら、当のご本人達の知性が日教組によって致命的に損なわれたはずなので、彼の言うことはたぶん支離滅裂であり、その主張には信憑性がないことになる。
逆に、その主張が正しいなら、彼らは正しく推論ができるほどに知的だということになる。したがって、先天的才能や後天的努力でその影響が簡単に払拭できるのだから、日教組イデオロギー的バイアスは目くじらをたてるものでもなかった(ない)ということになる。
出演者は全員、自分たちは「日教組の教育」からまったく影響を受けていないということを前提にしゃべっていた。
振り返ってみれば、小学生の頃、母親が「あの先生は日教組らしい…」とかなんとか言っているのを耳にして、「日教組とはなんぞや?」と問うたが、その説明の内容も、その先生が誰だったかすら忘れてしまっている。
そして日教組については、いまだにその実態をよく把握できていない(する気もない)。
いずれにせよ「日教組の教育」は、恐らく誰にもたいした影響を及ぼしていないのである。
となると、彼らの言説は、日教組から決定的な悪影響を受けたと主張する方がどこかに現れ、それがかなりの数にのぼるまで、多くの人にとって「正しい」とは言えないことになる(日教組の肩を持つつもりはない)。

大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)

大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)

言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである。自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間が請求しているのは「言論の自由」ではなく、「教化する自由、洗脳する自由、他者の意見を封殺する自由」である。彼は「自由な言論が行き交う場」の威信を構築するために汗をかく気はない。なぜなら、彼の言葉は他者たちによる吟味の場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。(…)
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない。
(by内田樹氏)

「自説の正しさ」を公開することの根拠として「言論の自由」を主張する人間に求められるのは「情理を尽くして説得する」という構えだろう。
この番組の出演者は、自説の主張や他人の誤謬を指摘することにはたいへん熱心だが、自分の過ちを認めることにはいささかの関心もない(番組としては面白いんだろうけど)。
「私もあなたも絶対的真理を知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、また少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」、すなわち論理的思考への道筋である。
そこまでする気がないなら、「日本の子ども(教育)を組織的にダメにしている政治結社が存在する」というような妄言は避けるべきであろう(いちおう大人なんだから)。
いずれにせよ、分からないことだらけの私には、各々が「絶対的真理」を主張し合う光景を垂れ流す番組の面白さを感じられなくなってきているのかもしれない(でも、フッサールに怒られるかも)。