コミュニケーション感度

moriyasu11232008-11-20

「医師常識欠落」発言を撤回=日医会長に陳謝−首相
 麻生太郎首相は20日午後、日本医師会(日医)の唐沢祥人会長と首相官邸で会談した。唐沢氏によると、首相は「社会的常識がかなり欠落している人が(医師に)多い」などとした自身の発言を陳謝した上で、「誤解を与えているようで、不適切であり、撤回する」と述べた。唐沢氏は、発言に抗議するため、首相を訪れた。
(2008年11月20日 時事通信社

少し前に、カップ麺の相場を問われて「400円」と答え、その常識?のなさを指摘された宰相が、今度は「医師の常識のなさ」を指摘し返したようである。
数日前には、官邸での知事会議の席で述べた以下のようなコメントが伝えられていた。
「自分で病院を経営しているから言うわけではないが、医者の確保はたいへんだ。(医師には)社会的常識がかなり欠落している人が多い。うちで何百人扱っているからよくわかる」
「正直これだけ(医師不足が)はげしくなれば、責任はお宅ら、お医者さんの話ではないのか。しかも、お医者さんを『減らせ減らせ、多すぎだ』と言ったのはどなたでしたか」
お得意の舌禍事件は、医師会への陳謝によっていちおう幕を閉じるのだろう。
しかし、自民党の重要な票田と言われる医師会の不興を買った影響は計り知れない。
彼は、いったい何のためにこのような発言をしたのだろうか(いちおう考えてみる)。
やっぱりわからない…
過去四半世紀にわたる医学部の定員抑制に、過当競争を好まない医師会の意向が反映していたのは事実だろうが、それによって医師会が医療環境の悪化を欲望したということは、常識的に考えてあり得ない。
現場は、競争が過当にならない程度、医療水準の質が高く維持できる程度の医師数を望んでいたはずである。
その勘定は、その時々の「さじ加減」で決めるほかない。
現在、医師不足で多くの問題が起こっているとすれば、その責任は「さじ加減」を間違えた厚労省、否、大臣任命権を持つ歴代の総理大臣が負うべきものであろう。
我らが宰相の言い分は、構造的には常に同型である。
例えば、前日学校を早退した友達に「昨日はなんで帰ったの?」と質問したときに「電車で」と答えられたような違和感である。
とっさのギャグとしては悪くはないが、シリアスな場面ではやはり問題であると言わざるを得ない。
この場合、英語だとWhyとHowを聞き間違えなければ問題は起きないが、日本語で「なんで帰ったの?」と質問されれば、「帰宅の手段」についての問いと解することも可能であり、理論的瑕疵はないと言い張ることもできる。
でも、普通は「そんなことを聞いてるんじゃない」ということが、誰にでもわかる。
前後の「文脈」というものがあるからだ。
「文脈」を捉えられなければ、コミュニケーションはうまく機能しない。だから私たちは、文言の外に散りばめられている無数の「非言語的シグナル」を感知して、相手が「その問いを通じて問いたいこと」を言い当てようとする。
問う人が、どういう口調で、どういう表情で、どういう姿勢で、どういう立場から、どういう利益を求めて、あるいはどういう不利益を回避するためにそれを問うのかと自問する。
手がかりは、文言それ自体のうちにはない。
我々が戴いている宰相は、この「非言語的シグナル」を読み当てる能力に致命的な欠陥があるようにみえる。
少し前に、宰相が「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞゆう」、「頻繁」を「はんざつ」と読んだことについて、メディアはその「無教養」ぶりを喧伝した。
ほんとうにそれだけであろうか。
齢70歳を向かえようという人間なら、これまでの生涯で「とうしゅう」「みぞう」という言葉を聞いた機会は、数千回を下らないはずである。
にもかかわらず、彼がその語句を読み誤ったということは、恐らく小学生の頃から今に至るまで、すなわち60年もの長きにわたり、自分の知らない言葉を耳にしたときに調べるという習慣をもたなかったと推察できる。
だいぶ前になるが、女子大生を対象に、ファッション雑誌の見開きページ中に読めない、または意味が分からない語句(熟語?)がどのくらいあるかを調査した結果、約3分の1から半分もあったという驚愕のレポートを読んだことがある。
宰相も女子大生も、なぜ知らない言葉の意味を考えなかったかというと、「自分が知らないことは、知る価値のないことだ」と推理したからである。
「無知」というのは、そのような自分の知力についての過大評価によって構造化されている(byソクラテス)。
「人の話を聴かない人間」は、他人の話のなかの「自分にわかること」だけをつまみ食いし、「自分にわからないこと」は「知る価値のないこと」であると切り捨てて、自分の聞き落としを合理化する。
自分の知力の限界についてクールかつリアルに自己評価できず、自分の誤謬を他人に指摘されるより先に発見することに知的リソースを割けない政治指導者を、我々はあとどれくらい戴いておかなければならないのだろうか。