エリートのつくり方

エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)

エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)

現在、多くの大学教員は、教育と事務、会議、営業、その他のペーパーワークなどによって、研究に時間を割くのが困難になっている様子である。
「金も時間もかかるから研究なんぞやらんでもよい」と言われる大学もあると聞く。
その一方で、大学や研究機関に奉職していない人、すなわち在野の一般人に大変ユニークな研究人(「けんきゅうびと」と詠ませたい)が少なからずおられるし、ネット上でも時々そういう方に巡り会ったりする。
これは、もはや時代的な必然なのかもしれない。
研究(者)というのは、実体的なものでもあり「マインド」のことでもある。
自分のことを棚に上げるようで何だが、研究室があり、予算がつき、そのための時間がなければ探求心が賦活しないという人間は、そもそも研究(者)に向いていないと思う(自戒)。
昨今の大学においてそういう「マインド」が薄れつつあるとすれば、それに代わる真の教育・研究機関を構想する必要もあるのかもしれない。
フランスの政界・官界・財界は、国立行政学院(ENA)などを頂点とする「グランド・ゼコール」という、いわゆる大学とは別の高等教育機関出身者で占められている(ただし「医学・法学・神学」の分野が存在しないため、医師、弁護士および聖職者を志す場合には大学に進学する必要がある)。
サルトルパスツールメルロー=ポンティ、キュリー夫妻ほか数多の学者や、フランス歴代大統領の多くやフランスの主要200社における経営者の過半数も、このグランド・ゼコール出身だそうである(ちなみにカルロス・ゴーンも)。
猛烈な勉学は言うに及ばず、その強靱な心身や強烈な自意識・闘争心など、真のエリートとはかくも凄まじきものかと恐れ入ってしまう。
無論、だからといって日本に同様のエリート校を作ればよいなどと考えるのは短絡であろう。

『【緯度経度】パリ・山口昌子 エリートが駄目な国は駄目』
フランスの民放テレビがこのほど、テレビ映画「権力の学校」を放映し、話題を呼んだ。学校のモデルは高級官僚の養成所である国立行政学院(ENA)。卒業生は「エナルク」と呼ばれ、政財官界を支配している。
この映画が話題となったのは、登場人物のモデルが、1980年卒組の社会党のロワイヤル前大統領候補、彼女の“同居人”だったオランド前社会党第1書記、ドビルパン前首相であることに加え、サルコジ大統領がENAの改革を推進しておりニュース性があったからだ。
改革の目玉は卒業時の席次順による官庁指名制度の廃止だ。これまでは成績上位の生徒は財務監督官、会計検査院、参事院のうちのどれかを指名。そこで数年働いた後に、大統領府や内閣の官房に入る。人脈づくりに励んで議員や閣僚を目指すか、大手企業に天下る−。かくてエナルクが官界どころか政財界も支配するという結果になっていたが、これにメスを入れようというわけだ。
しかし、ドゴール将軍が45年にエリート教育の必要性を痛感してENAを創設した当時は、野望や出世とは無縁の、国家に無私に奉仕するエリートを育てるのが目的だった。第二次世界大戦レジスタンスを率いたドゴール将軍にとって、戦前の自国のエリートたちはヒトラーの侵攻を座視したばかりか、戦時中も大半がドイツへの協力に走り、結果的に国家を敗北へと導いた「裏切り者」だった。
エリートがダメな国は結局、ダメになるというわけだ。ENA創設の政令では(1)国民のアイデンティティーの再構築(2)社会的階級からの官僚の独立(3)国益を最優先し各官庁間の隔絶を解消(4)政治からの独立−などを規定し、真のエリートのあるべき姿を示している。
フランス全土から、貧富を問わず結集された優秀な人材を育てるために、ENAの生徒には、ナポレオンが創設した理工科学院(ポリテクニック)や高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の生徒と同様、月給が出ている。フランスがいかに国家の屋台骨になるエリートの教育に力を入れているかがうかがえる。
ところが、2009年に入学し11年に卒業する現在の生徒81人(男49、女32)のうち、両親が労働者階級である者は3人、農業が1人で、大半はいわゆる富裕層の出身だ。ドゴール将軍の創設の理念を具現しているエナルクが今、フランスに何人いるのだろうか。
サルコジ大統領が大統領選に勝利した要因の1つとして「非エナルク、非エリート」があげられている。シラク前政権時代、シラク氏はもとより首相のドビルパン氏も、保革政権時代に首相だった社会党のジョスパン氏も、そして両政権の閣僚の大半もエナルクだった。ジョスパン氏の下で雇用・連帯相として「週35時間労働制」を導入したオブリ社会党第1書記もエナルクだ。
労働時間を短縮し、その分の仕事を失業者に配分して雇用を創出するという週35時間労働制は結局、失敗した。現実の社会と乖離(かいり)した「机上の空論」だったことから社会混乱を招いた。現実と遊離してエリート集団と化した社会党は「キャビア社会党」と呼ばれて失墜し、02年の大統領選でシラク氏が再選された主要因ともなった。
エリートによる閉塞(へいそく)感を一掃したいという国民の期待を担って登場したサルコジ政権では、弁護士出身の大統領以下、非エナルクが大半を占める。エナルクはペクレス高等教育・研究相とジュアノ環境担当相の2人だけだ。
サルコジ大統領のENA改革が、ドゴール将軍の創設理念に沿ったENAの復活につながるのかどうか。それにしても日本には真のエリートがいるのだろうか。
(2009年1月31日 産経ニュース)

日本の教育の本質的な問題は、恐らくグランド・ゼコールが存在しないことではない。
サルコジのENA改革の趨勢はさておき、このようなフランスの高等教育に関する議論や取り組みには、少なくとも何に価値をおいて人材育成を行うかについての「理念」を垣間見ることができる。
このような理念や学校設置に伴う価値観が明確であれば、我が国の教育制度でもそれなりの成果はあげられるはずである。
それなりどころか、明治以前に歴史を遡れば世界に先駆ける教育成果を挙げていた時代も少なからずあるし、学歴と社会階層の結びつきがフランスほどには強固でないというアドバンテージもある。
にもかかわらず、我が国では依然として教育活動を「商品化」し、保護者や子どもたちを「消費者」と呼び、宣伝に金と手間をかければ「市場」はいくらでも開拓できると信じて疑わないビジネスライクな人々が、教育現場に対して強いリーダーシップを発揮している。
閑話休題
「成熟」の指標は、様々な仕方でセットされ、様々な機会に吟味しなければならない。
学校でのテストの点数は「その意味や有用性がよく理解できないことや、とりあえず「正しい」と言われていることを黙って学習する能力」の指標である。
これはまぎれもなく「成熟」への第一歩である。
しかしそれは、あくまでも「第一歩」であり、そこにとどまるべきものではない。
そして「第二歩」では、「その意味や有用性がよく理解できないことや、とりあえず「正しい」と言われていることについては、納得できなければやらないという意志力」を身にまとう段階に達する。
この「受容」と「反発」は、昆虫の脱皮と同じように何度も繰り返される。それは、ちょうどスポーツにおけるパフォーマンスが、トレーニング負荷と超回復の繰り返しによって波状的に高まっていくのにも似ている。
したがって、テストの点数というのは、「成熟」の指標として「個人における経年変化」を見る場合にのみ有用なのであって、それ以外には役に立たない。
我が国の初等中等教育が、長らく「同学齢集団内での相対的優位」を偏差値なるもので示し、それを高くすることに教育資源の多くを投じてきた結果、我が国の子どもの学力は下がり続けている(と言われている)。
所属する集団内部での「閉じた競争」に子どもを追いやることに、教育的な意味はほとんど(≠全く)ないと言っても過言ではない。
しかし、依然として我が国では、教育を受けることの目的を「相対的優位」に立つことだと考える人たちが教育行政を与り、巷間それを信じて疑わない人たちも少なくない。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば−西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。(…)
今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。
(by福沢諭吉氏)

こういうエリート達が、近代日本の礎を築いてきたのである。
教育はその原点に立ち返り、子どもを「成熟」させるために何が必要かを真摯に問うべきであろう。
さらにいえば、大人が常に自分の未熟、すなわち「大きな子ども」であることを恥じる文化からしか、子どもを「成熟」に導くことはできないと思われるのである(う〜ん、パラドキシカル)。