五輪哲学の灯火

moriyasu11232008-04-26

聖火ランナー思い様々 有森さん「それでも私は走る」』
聖火リレーの本番まであと1週間ほどに迫った18日、長野市のシンボル的存在の善光寺が出発地点返上の方針を示し、聖火リレーのルート変更が決まった。突然の展開に、26日に全長18.5キロ間で聖火をつなぐ有名人やアスリート、一般市民のランナー80人の胸中も揺れた。緊張感が増すなか、「妨害は怖いが頑張る」「世界の平和を願って走る」と話す人や、ノーコメントを通す人など、反応はさまざまだ。
「正直、妨害活動は怖いと思うけど、JOC日本オリンピック委員会)に任されたのでちゃんとやろうと思う。妨害が起きないことを願っている」。アテネ五輪レスリングの金メダリストでリレーに参加する吉田沙保里さん(25)はそう話した。
アテネ五輪に出場した陸上の末續慎吾さん(27)が所属するミズノは「気持ちに変わりはないようだ」とコメントした。
ただ、ある有名人ランナーが所属する事務所は匿名を条件に「こんなことになるとは思ってもいなかった。辞退するかどうかは分からない。社会情勢の様子をみるしかない」とピリピリした雰囲気。広告車両をリレーの車列と一緒に走らせる計画を中止した日本コカ・コーラは、認定NPO法人スペシャルオリンピックス日本名誉会長、細川佳代子さんをランナーに選出しているが「現時点でコメントを出すことは考えていない」。
聖火リレーは本来なら晴れの舞台だが、市民ランナーの間でも「取材には応じられない」との声が聞かれた。取材に応じた長野市の会社員、高橋准一さん(37)は「長野市といえば善光寺。正直寂しいが、やむを得ない。不安はあるが警備が多数出ると聞いたので大丈夫だと思う」と、しっかりと走るつもりだ。
リレーに参加するバルセロナアトランタ両五輪でメダルを獲得した有森裕子さん(41)は「チベットに対する非人道的な問題に、善光寺として抗議の意思を表現したということだろう。これも一つの権利だが、私がどうこう評価する話ではない」と話した。
その上で「騒動は走者や選手には厳しいかもしれない。でも、チベット問題に多くの人が興味を持ち、人々が平和を願う声をつなげていけるなら、このリレーはすばらしいことだ。私は世界の平和を願って走りたい。ただ、中国の聖火警備隊はいらない。五輪は開催国のものではなく、すべての人の平和の祭典だ。中国のものと考えているなら、その考えは間違っている」と訴えた。
(2008年4月18日 産経新聞

改めて書くまでもないが、3月にチベットで騒乱が起きて以来、聖火リレーが中国政府への抗議の標的となり、連日メディアを賑わしている。
この問題は、国境なき記者団を中心とする反対派によるパリでの抗議行動、サルコジ仏大統領の開会式ボイコットを匂わす発言に端を発し、その報復活動として中国のフランス系スーパーなどが反仏デモに襲われる事態となる。
その後も同様の混乱が、中国および聖火が訪れる国で度々起こっている。
要するに「いたちごっこ」である。
聖火リレーを妨害する行為は、中国の人権問題に対する抗議の矛先としてはあまりに低次元の行動であるが、反対運動があった国(と関係があるもの)に対する攻撃を以て反撃するというのもまた無理筋である。
要するに「どっちもどっち」である。
誤解の無いように言っておくが、私は中国(共産党)のチベットに対する行為を肯定するつもりはさらさらない。ただ、「目には目を」的な活動でこの問題を解決に導くことはほとんど不可能であると言いたいだけである(もし解決したいのであれば)。
そのことをダライ・ラマ14世は熟知している。
中国には55民族、約1億4000万人の少数民族がいる(日本人より多いやん)。その55民族には、それぞれ一人以上の政治指導者がいるはずだが(つまり55人以上)、ダライ・ラマ14世以外の名は寡聞にして知らない。
私たちには、少数民族の中でも小規模といえる270万人のチベットの弾圧については潤沢な情報が提供されているのに対して、チベットと同様の境遇にある新彊ウイグル自治区(人口1900万人、中国国土面積の17%を占める「大国」)における強権支配についてはほとんど無知に等しい。
なぜか?
それはダライ・ラマ14世が、「倫理的に正しい言葉(非暴力)」だけを選択的に語り続けるという「戦略」によって、世界にその名前と実績を知られる希有な中国少数民族指導者となったからである。
そして中国(共産党)が国際社会で威信を失い、「チベット」という言葉が連日連夜世界中のメディアで繰り返し言及され、世界中の人権派たちがこぞってチベット支援を標榜するこの現況こそ、ダライ・ラマ14世がデザイアー(by中森明菜)していたことである。
おそるべしダライ・ラマ14世
閑話休題
我が国の聖火リレーへの対応はといえば、広告車両をリレーの車列と一緒に走らせようとしていた節操のないスポンサーや、萩本欽一氏に「当日は欽ちゃん走りをしますか?」などと嬉々として質問しているメディアの体たらくぶりは改めて言うまでもないが、政界やスポーツ界で重責を担うお歴々の「残念だが、現状では善光寺の決意を尊重し…」「混乱を招かないことが一番大事…」「(善光寺の決心は)立派な姿勢。同じ仏教徒への哀れみや共感で、拒否したのはむべなるかな」といった発言を概観する限り、オリンピズムを理解し、五輪運動の推進について真剣に考えているとは言い難い。
アサファパウエルの憂鬱3(3月23日参照)で引いた老子の言を再録する。

善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つものは与せず。
老子「第68章」より抜粋)

老子の脱二元論的視座、それがすなわちオリンピズムである(違うかもしれない)。実は、ダライ・ラマ14世の「戦略」もこれに近い。
オリンピズムは日常を超越する思想であり、五輪運動は政治も宗教も人種もあらゆる障壁を乗り越えようという世界的意志である。その思想は、いかなる理由であっても五輪の象徴を拒否することを受容しない。
長野五輪招致時に五輪平和思想と共鳴していた善光寺は、オリンピック主義を表明したいわば「五輪家族」である。ならば、平和の象徴として来日する聖火受け入れの是非については、もっと議論を尽くすべきではなかったか。なぜなら、仮に受け入れたとしても、それは中国のチベットに対する仕打ちを肯定することにはならないからである。
なぜか?
その答えは、冒頭の記事における有森裕子氏のコメントの中にある。
「五輪は開催国のものではなく、すべての人の平和の祭典だ。中国のものと考えているなら、その考えは間違っている。」
これは中国だけにではなく、「いたちごっこ」の渦中にいる(我々も含めた)全ての人々に向けられたメッセージでもある。
そのことを肝に銘じて、今日の聖火リレーを見守りたい。