タレント発掘

昨日、スポーツ医・科学を牽引するお二人の先生方と杯を酌み交わす機会に恵まれた(もう何度も飲んでるけど)。
話題の中心は「スポーツにおけるタレント発掘(以下、スポタレ発掘)」。
なにそれ?とお思いの方は、芸能タレントをスカウトするスター誕生とかタレントスカウトキャラバンのスポーツバージョンと思っていただければよい(古くて申し訳ない)。
違いはといえば、芸能タレントとしてすぐにデビューさせる即戦力を発掘するのではなく、将来スポーツ選手として大成しそうな子ども達(主に小学生)を「発掘」するところにある。
そして、スポタレ発掘が孕む問題も、実はそこにある。

ヴィゴツキー 教育心理学講義

ヴィゴツキー 教育心理学講義

私淑するロシアの心理学者ヴィゴツキーは、子どもの発達状態を評価するときには、成熟した機能だけではなく、成熟しつつある機能を見なければならないと主張する。
一般に、知能テストは、子どもの知能の「現下の発達水準」を見るものであり、子どもが独力で解いた解答を指標として評価する。しかし、ヴィゴツキーは、例えば8歳の子ども達に、年齢より上のレベルのテストを課し、その過程で誘導的な質問やヒントを出して手助けすると、ある子どもは12歳までの問題を解き、別の子どもは9歳までの問題しか解けないことを発見し、「現下の発達水準」と、他人との共同のなかで問題を解く場合に到達する水準、すなわち「明日の発達水準」とのあいだを「発達の最近接領域」と定義する。
そして「教育」の最も重要な役割は、この「発達の最近接領域」にアプローチすることであると断言するのである。
スポタレ発掘では、体力、コォーディネーション?能力、思考能力、コミュニケーション能力などを「テスト」によって評価してタレントを選抜しているようだが、それはあくまでも「現下の発達水準」に過ぎない。
さらに言えば、これらのテストで評価できるのは「早熟か否か」でしかないこと、すなわち選ばれた子ども達は多かれ少なかれ「早熟」なだけなのだが、スポタレ発掘ではそのような現実があまり考慮されていないように思われる。
ヴィゴツキーは、障害児研究のプロセスから「障害それ自体が<異常>という状態を生み出すのではなく、社会的文脈の中に障害が取り入れられたときに初めてその<異常>が認識される」と主張する。
つまり、その子の生活環境(人的環境・教育的環境も含めて)の改善に取り組むことにより、異常は軽減される場合も、別の意味をもつ場合もあるということである。
さらに「発達障害」や「発達遅滞」という専門用語にも異議を唱え、「一般的に唱えられている発達論を尺度にして彼らを見ることによって『発達障害』『発達遅滞』という概念が生まれてくるのであり、個々の子どもの発達としてみるならば、決して障害や遅滞という概念で捉える必要性はない」としている。
この文脈に「タレント」「早熟」「晩熟」といった言葉を放り込めば、スポタレ発掘の問題点がさらに浮き彫りになる。
「選ばれたい」と思って足を運んできた親子にとっては、どちらの結果にせよ、その事実が頭の片隅に残り続けることになる。
子どもは、運動の上手下手の評価で、簡単に「やる気」が出たり失ったりするものである。
スポーツに限らず、何事かで一流になるには少なくとも10年間(1万時間?)の科学的・合理的なトレーニングが必要であるといわれるが、「発掘」のあとに必要となる長大な「研磨時間」のことが十分に考慮されているとは思えない。
時折、この事業の担当者(お上ではなく都道府県行政職)の方々とお話しさせていただく機会を得るが、漠然とした問題意識や違和感を抱えつつも、決まった以上やらざるを得ないという、どちらかといえば消極的な状況にある。
それならそれで、この事業の中で「揺らぎ(by九州本部氏)」つつ、有意義なものに修正・発展させていくことを指向するべきであろう。
例えば、セレクトされた子ども達がほとんど早熟であるという前提から出発し、「早熟の子ども達をいかにスポーツからバーンアウトさせないか」という課題に切り替えて、競技者育成プログラムを考えていくというのもひとつの道かもしれない。
また、せっかく足を運んできたのにセレクトされなかった子ども(およびその親)達を、何のフォローもなくみすみす帰宅させる手はない。
このあたりの配慮の善し悪しも、その後の自治体のスポーツ環境に大きく影響を及ぼすであろうことは想像に難くない。
スポタレ発掘事業は、マイナー競技に人材を供給できる可能性が高まるため、そのなかから1人でもオリンピック選手に成長すれば、その子にもスポーツ団体にもメリットがあるという意見がある。
しかし、それはずいぶんと乱暴な、大人目線の意見のように思われる。
オリンピック選手に成長した人は、それでよい(と思う)かもしれない(思わないかもしれない)。
いわんや、スポーツ団体はそれでよいだろう。
しかし、それは「スポーツ側」のロジックでしかない。
問題は、そのロジックで吸収しきれない(しきれなかった)他の多くの子ども達のことをどのように考えるのかということである。
そのことに費やした「時間」というものが存在し、その時間は取り返しのつかないものであり、別の可能性を奪うことにもなりかねないということに対して、関係者は(私も含めて)もう少し自覚的になるべきではなかろうか。
「発掘」という言葉に感じる「違和」は、スポーツ界の「驕り」に対する「違和感」なのかもしれない。