日常という名の奇跡

moriyasu11232012-10-16

とある出版物改訂のために元原稿ファイルを探しているさなか、長男(小三)が保育園を卒園する直前の「園だより」にと依頼されて寄稿したテキストに行きあたった。
史上初の「1ヶ月更新ゼロ」を成し遂げる可能性のあった今月を乗り切るため、これを援用することとしたい。

昨年12月、妻とともに長男(年長クラス)の保育に参加。
園庭に出ると、いつものように鬼ごっこが始まる(もちろんオニは私)。嬉々として逃げ回る子ども達を、手当たり次第に追いかける。
ごっこに飽きてきた子ども達は、オニにボールをぶつけ始める(当然ぶつけ返す)。
外でめいっぱい遊んだ後、室内でのカードゲームやランチに興じ、担任の先生との面談を終えて、楽しいひとときに後ろ髪を引かれつつ(洋服を引っ張られつつ)帰途につく。
昔に比べて「(仕事も含めた)やりたいこと」が増えている今時の親は、子どもの「面倒」をみてくれるところを探さねばならない。かくいう我が家も、おばあちゃん(義母)と保育園に足を向けては寝られない。
「面倒」という言葉には「手間のかかること、解決が容易でないこと…」、転じて「世話」という意味がある。園では、様々な趣向を凝らした<子育ち>の場を提供してくれているが、多くの手間がかかり、正解も見つからない「子どもの世話」、すなわち<子育て>の最終責任は言うまでもなく家庭(親)にある。
「子は親(大人)の背中を見て育つ」と言われるが、私たちは「鏡」なくして自分の背中を見ることができない。そして「子は親(大人)の鏡」、すなわち私たち自身や社会を映し出す「鏡」とは他ならぬ「子ども達」である。
そのことを肝に銘じながら、次年度の長女(年少クラス)の保育参加を楽しみに待ちたい。
(2010年3月15日 拙稿「我が子の保育に参加して」より)

あれから2年と半年あまりが過ぎ去ったが、今夏には長女(年長)の保育参加も無事に終了し、新年度からは長男と一緒の登校班での通学が始まる。
あと半年足らずで終了してしまう娘の保育園送りは父親の役目である。
一番最初に家を出る長男を叱咤激励(ときに叱責)しながら、長女の着替えやタオルなどを準備しつつ自身の身支度を整える。
職場に向かう妻に手を振る娘の手を取り、歌をうたったり、マンホールをジャンプしたり、競走したり、毎朝顔を合わせる(ほとんど寝ている)番犬に挨拶したりしながら、園までの10分足らずの親子水入らずを楽しむのが「日課(日常)」である。
この極めてありきたりな「日常」が、実は数多くの偶然が重なり合うことによって成り立っている「奇跡」でもあることを、私たちは普段ほとんど意識していない。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

じっさい、完全な親なんか、人間の中には存在しないんだ。完全な親であることができるのは、動物の親だけだ。なぜなら、彼らの目的は生命を全うすることだけだからだ。でも、人間はそうじゃない。生命としての人生をどんなふうに生きるのか、それを考えてしまうからだ。人生の真実とは何なのか、死ぬまで人は考えているのだから、その限り全ての人間は不完全だ。(…)
動物なら生きるために家族で助け合うという理由が明確だけど、人間が家族の中に生まれてくる理由は、それだけではないんだ。家族というのは最初の社会、他人と付き合うということを学ぶ最初の場所だ。家族の外の社会には、もっといろんな他人がいる。そういう他人とどう付き合ってゆくのかを予習するための場所なんだ。
ところで、不思議なのは、世の中にはいろんな他人がいるのに、なぜ、よりによって、君は君の親のところに生まれてきたのかということなんだ。理由がないという意味では、これはまったくの偶然だ。でも、偶然なのにそうだったという意味では、これは確かに縁なんだ。他人と他人の「親子の縁」、人生の意味も、ここから考えてゆくと、意外と面白いことになることに気がつくはずだ。
(by池田晶子氏)

全くの偶然によってこの世に生まれ出てきた「他人」同士が、「己の世界のなかにある他=他己」同士として「親子」という関係を結んでいく。
この偶然でありながらも必然(宿命)を思わせる「親子の縁(えにし)」は、「自己」を中心とする二つの親子関係を改めて意識させるだけでなく、人生の意味を再考するきっかけにもなると思われるのである。