負けなかった戦い…

moriyasu11232009-10-05

一昨日(3日)は、保育園の運動会。
既にご案内の通り、我々年長(ブドウ)組の保護者&子ども達は、本番の「綱引き」に向けて9月26日(土)に練習会を挙行している(出るのはパパだけど…)。
本番前日(金)の天気予報は、当日午前中の降水確率が「70%」と高率(むむむ…)。
2歳児クラス(イチゴ組)の長女は、お婆ちゃんと作った「てるてる坊主」をベランダの植木に吊してから眠りについた。
翌朝、妻の「晴れてるー!!」という叫び声にたたき起こさる。
聞けば、ママ達の携帯メールでは、朝の5時過ぎから「晴れた!」の文字が飛び交っていたらしい(とっても早起き…)。
9時前に保育園に集合したときも、そこかしこで「おはようございます」の挨拶のあとに「晴れましたねー」と付け加えられる。
そのくらい、奇跡的な晴れ間であった(園長先生も大喜び)。ちなみに、昨年の模様はコチラ(今年の逆上がりは余裕の成功!)。
ピーカンでスタートした運動会であったが、プログラムを1/4ほどこなしたところで、文字通り「雲行き」が怪しくなってくる。怪しくなってからの展開は早く、直に本降りとなる(涙)。
肝心なときに当たらず、また肝心なときに外れないのが「天気予報」である。
しばらく中断して様子をみていたものの、グラウンドにもかなりの水がたまり、もし雨がやんだとしても再開は困難であろうという状況になる。
園長先生から、「教室やホールでも可能な遊戯系プログラムを披露すること」と「残りのプログラムについては、平日の通常保育のなかで後日行うことにする(可能であれば保護者も参加して欲しい)」というアナウンスがある。
いずれにせよ「絶対に負けられない戦い」が「不戦」という形で幕を閉じたことを告げるアナウンスであることに相違はない。
パパ達用のユニフォーム(紫色のTシャツ)や子ども達用の応援手旗まで準備するという、少々過剰なまでの盛り上がりをみせていたブドウ組(保護者)としては、なんともやりきれない顛末である。
しかし、この中止(延期)を一番残念に思っているのは、ここまで周到に準備や練習を進めてきた他ならぬ保育士の先生方であろう(ありがとうございました)。
お遊戯が終わり、オフィシャルなクラス写真の撮影後に、異様な?ユニフォーム姿のパパ達と応援旗をもった子ども達の記念撮影(冒頭写真)。
夜には、家事全般を済ませた不完全燃焼のパパ達(約20名)が、21時に自宅最寄り駅前の日本海庄やに集合して「(戦っていれば間違いなく)優勝祝賀会」を開催する。
23時過ぎに店を追い出されたため(もちろん閉店で…)、近くにある田子商店に移動して深夜3時にまで及ぶ二次会(お疲れ様でした)。
ん?カラオケを歌った記憶があるのは気のせいか?(ま、いっか…)
閑話休題
先の日記に、北部父親さんが重要なコメントをしてくれている。
残念ながら「となりの子育て(どこまで関わる!? スポーツ活動)」という番組はみていないが、番組紹介によれば「サッカーや野球などの課外スポーツ活動に参加する子どもの親から、悩みの声が聞かれる。弁当作りや試合会場までの送り迎え、審判へのお茶出しや試合記録の管理など、親がチーム運営のかなりの部分を担うことも珍しくない。そんな負担を負いきれなくて断念する人がいたり、役割分担を巡ってトラブルが起こったり…。無理なく親子ともに活動を楽しむにはどうすればいいのかを考える。(by NHK)」という内容だったようである。
実はこれらは、スポーツ少年団の機関誌(Sports Just)でもよく取り上げられている話題であり、しかるに子どものスポーツに関わる保護者にとっては喫緊かつ死活?の問題なのであろう。
まさに「変わりゆく日本のスポーツ」の様相である。
唐突だが、江戸初期から明治初期にかけての開設数累計が15,000教室を超えるといわれる私塾(含む寺子屋)では、下級士族や町民、商人らによって「身銭を切って教育の場を作り出す」という理念が共有されていた。
そして、この私塾の存在が、男子79%、女子21%(武士はほぼ100%、農村僻地でも20%)という世界に類をみない識字率(literacy rate)を誇った幕末期日本の庶民教育の重要な担い手となっていたことは言を俟たない。
私淑する吉田松陰先生は言うに及ばず、小商いや金融業によって生計を補いつつ講学を進めた中江藤樹、小児科医の傍ら夜間に講座を開いた本居宣長ほか有名無名の多くの塾長達は皆、赤貧のうちに開設した私塾であるにも関わらず貧乏人からは授業料を一切取らなかった。
なぜか?
「教育」によって「(教育を)受ける側」が利するならば、「受ける側」から「(教育を)する側」に反対給付するのが自然であり、「する側」が「身銭を切る」という発想が出てくる必然性は全くない。
「身銭を切る」という発想が出てくるのは、教育の目的が「受ける側の自己利益増大」ではなく、「する側の利益増大」すなわち「共同体の延命」にあるという合意が形成されていたからに他ならない。
換言すれば、これらの私塾は、「パブリックに配慮&貢献可能な市民(citizen)を育成することが、(当時の)日本国にとって喫緊かつ死活的課題である」ということを熟知していた大人たちの学問や教育に対する「内発的動機づけ」に支えられていたのである。
しかるに、北部父親さんの「内発的な動機づけをうまく形にしていくには,現状ではそれぞれのクラブのリーダーの考え方が一番大切」という指摘は大変に重要なのである。
斯界では、様々なニーズにふさわしいプログラム(コーチング)を有償で提供するため、それを提供する指導者やスタッフをボランティアではなくプロ化し、受益者が負担する会費やサポートによってそのコストを賄うという「形」が目指すべき方向性として打ち出され、「ビジネス(等価交換)モデルとしてのスポーツ」がそこかしこで展開されている。
しかし、スポーツというのは本来自分に利する(楽しむ)ものであり、それを「教えること」は本質的には「おせっかい」であり、それでもスポーツを教えたい人間は「身銭を切る」ところから始めるというのがまずもっての「形」なのではなかろうか(身銭とは「応分の負担」という意味である)。
少なくとも私塾のリーダー達は、そういう志向性をもって「学問」や「教育」と対峙していたに違いない。
脚下照顧。
繰り返しになるが、恐らく「(スポーツ)クラブ」というものの存在意義や価値は、個々人の「必要」や「欲求」から出発するスポーツへの「自由な需要」を念頭に置きつつ、どうしたらより多くの人がスポーツを好きになり、それがより多くの人の人生の価値になるのか、そしてそのために何が必要なのかについて、ひとり一人が自分を棚上げせずに考えていくなかで、はじめて浮かび上がってくるものである、と思う。
こういうときこそ、自分自身が「なぜスポーツをしたい(したくない)」「なぜ子どもにスポーツをさせたい(させたくない)」と「思う」のかについて、よくよく「考え」てみる必要があるだろう。
いずれにせよ、現代のスポーツが抱えている様々な問題は、スポーツを「楽しむ(愉しむ)」ということが難しい時代になっていることの証左と言えるのかもしれない。
その意味で、今回の「綱引き」は、我々に重要な示唆を与えてくれていると思われるのである。