変わりゆく日本のスポーツ

変わりゆく日本のスポーツ (SEKAISHISO SEMINAR)

変わりゆく日本のスポーツ (SEKAISHISO SEMINAR)

朋あり遠方より『本』来る、亦楽しからずや…
著者には、仕事でご一緒させていただいている筑波大学K先生&立教大学M先生をはじめ、体育・スポーツにおける人文社会学研究の第一線でご活躍の方々お名前が並んでいる。
九州本部氏(以下T君)は、「総合型地域スポーツクラブ政策とスポーツ行政の揺らぎ構造 ─スポーツ環境再構築に向け「揺らぎ」はいかなる意味をもつのか─」というタイトルの論考を寄せている。
T君は、総合型地域スポーツクラブ(以下クラブ)に関する数多の「問い」を盛り込みつつ、「行政主導」から「住民主導」のスポーツ振興はいかにすれば可能なのか(可能ではないのか)について、住民と行政との関係、特に市町村行政が抱える「揺らぎ」に注目し検討している。
行政担当者は、これまで行政主導のスポーツ政策を前例踏襲的にこなしていればよかったところに、国からのお達し(各市区町村にひとつは総合型のクラブをつくりなさい!)が突然押し寄せ、住民との適切かつ新たな「(役割)距離感」の構築に戸惑い、住民主導の体制づくりに向けた「実践的試行錯誤を余儀なくされている」状態であるという。
ここまで読んだだけでも、大変なストレスを抱えていることは想像に難くない。
「今までのスポーツで何が悪いんですかね…」
担当者のこの吐露とその周辺には、巷間役人に向けられる紋切り型のまなざしだけでは到底片付けることのできないアポリアが含まれている。
T君は、ギデンズの「第三の道」から「行政と市民社会は、お互いに助けあい、お互いを監視し合うという意味での協力関係を築くべき」という一文を引いている。これはまさに、市民中心でも行政中心でもなく、市民と行政が適切な役割で補完しあうことの重要性を説くものであり、それは政策における「目的」と「手段」の区別とそれぞれの適切な割り当てのことを指す。
「市民」というのは、単に「○×市の住民」という意味ではない(そういう意味もある)。
第三の道」というコンセプトの中には、重要な二つの概念がある。一つはインクルージョン(包摂)で、もう一つは新しいシチズンシップ(市民性)という発想である。
「包摂」とは、「他者(異者)との共存」という意味での「多様なる参加」である。
そして「市民性」とは、経験を通じて自分たちに何が必要なのかを学び、かつ自分たちとは誰なのかの線引きを絶えず疑い続けるような、およそ教条主義とは無縁の「オープンマインド」なあり方といえる。
畢竟、役人も地域住民も「一市民」としてスポーツと関わりながら、その「区別」と「適切な割り当て」について吟味しつつ「落ち着きどころ」を探っていかなければならない、というのがT君のメッセージである(たぶん)。
繰り返し用いているセンテンスだが、何かが「必要」であるという考え方は「強制」に振れやすく、「欲求」に任せればよいという考え方は「放任」に流されやすくなる。
恐らく「クラブ」というものの存在意義や価値は、個々人の「必要」や「欲求」から出発するスポーツへの自由な需要を念頭に置きつつ中庸をもとめ続けること、すなわちどうしたらスポーツが好きになり、どうしたらそれが人生の価値になるのか、そしてそのために何が必要なのかについて、ひとり一人が自分を棚上げせずに考えていくなかで、はじめて浮かび上がってくるものではなかろうか。
表紙をめくると、T君直筆の「全国制御!!」というサインがある。
T君は、「全国制覇に向けた…」と銘打って多くの競技スポーツ指導者を集めた講習会の講師として呼ばれたときですら「私の仕事は、スポーツにおける全国制覇ではなく全国<制御>です!」と言って憚らない男である。
さすがに間然するところがない。
今、スポーツ界に必要なのは「制御(コントロール)」のコンセプトである。これは、スポーツが文化としての地位を確立するために必要な「勇気ある撤退」なのである。さらに言えば「グランドマザー(カレー)」への回帰ともほぼ同意である。
T君、献本ありがとうね。