ひとり学際とは?

moriyasu11232008-04-08

このことについて、もっと早く書くつもりであったが、何故か後回しになってしまっていた(ホントは難しいので書きたくなかった、否、書けなかった)。
大変唐突であるが、昨今話題の「体力低下問題(あるいはメタボ問題)」を考える際には、「なぜ人間の身体活動量は減り続けるのか?」という問いを避けて通ることはできない。
そして、この問いに忠実になればなるほど、我々は学際的にならざるを得ない。
なぜなら、「身体活動量の減少」という事象は、それが人間にもたらす生理的・生化学的な適応のみならず、運動から遠ざかる心理や、運動を遠ざけている社会環境およびシステムを抜きにして考えることはできないからである。さらにいえば、「身体活動量の減少」が人間存在に何をもたらすのかについての人類学的または思想的考察も不可避である。この種の問題意識が、既存の学問領域のひとつの分野に過不足なく収まるケースはきわめて稀である。
つまりは「総合(的)研究」が必要となるのである。
「ひとり学際」は、生命倫理を扱う哲学者である森岡正博氏(大阪府立大)が、多くの著書や論文の中で用いている言葉であるが、かいつまんで言うと「総合(的)研究」を目指す際のひとつの「柱」を表現したものである。

「専門型研究」「学際型共同研究」「ひとり学際研究」の3つが有機的に組み合わさったとき、真の「総合研究」が成立する。この3つのなかで要となるのは、第三の「ひとり学際研究」である。…すなわち、研究者ひとりのなかで達成されるであろう「ひとり学際研究」というものを、「専門型研究」と「学際型共同研究」が両側からささえるときに、その営みの総体が「総合研究」となるのである。
森岡正博「総合研究の理念—その構想と実践」より抜粋)

この考え方の最大の特徴は、「学問的総合というものが、研究者ひとりの個人のなかで達成される」としている点にある。
学問的総合というものは、専門を異にする複数の研究者による共同研究によってはじめて達成されると考えられがちである。しかし、たかだか10年を超えた程度ではあるが、学際的研究プロジェクトに関わってきた私自身の拙い経験から、必ずしもそうではない、むしろそれが足枷にすらなっているのではないかという漠然とした疑問をもっていた。
私の職場では、約50年もの長きにわたりスポーツ医・科学に関するプロジェクト研究を進めてきており、これまでに扱った研究テーマは、人文科学、自然科学、複合領域的なものも含めて250を超える。以前は、同じ専門領域の研究者を複数集めて、作業を分担しながら成果物(すなわち研究報告書)を作成するという、いわゆる「専門的共同研究」が主であったが、最近は、異なる専門領域の研究者が参画し、あるテーマについて多方面から調査し、議論するという「学際的共同研究」も増えつつある(もちろん過去にもあったが)。
この研究手法は、有効な研究スタイルとして広く行なわれているものであり、大学内や科研費による共同研究なども、このスタイルをとるものが多い。成功すれば大きな成果を生むことも立証されていると言ってよいだろう。
しかしながら、この学際的共同研究にもいくつかの難点がある。ひとつは、単に様々な領域の研究者が集まってきて、お互いの意見を述べるだけという結果になることである。いまひとつは、各メンバーの論文が、相互連関もなく並んでいるだけのものが報告書として出版されることである。その企画から新たに発見されたものは何か、それはどのような意味で「学際的」「領域横断的」な新知見なのかが判然としないのである。
実際は、ある専門分野が「ほにゃらら(by久米宏)」について考えるということは、「ほにゃらら」以外については(あまり)考えないということであり、見方を一定に定めるということは、他の見方を妨げてしまうこととも無関係ではあり得ない。ここに、複数の学問領域を「総合(統合)」することの困難性がある。
しかし、このような問題意識は、すでに体育・スポーツの「現場」においては顕在化(または潜在化)しており、それを克服するための「実践」が長きにわたって粛々と行われているのである。
よく「バイオメカニクスでも運動生理学でも心理学でも…使えるものはなんでも使う」というスタンスを標榜する選手や指導者がいるが、それはまさに究極の「ひとり学際」的視座であるといえる。
彼らは「心技体に関わるあらゆる要素を考慮しつつ、最適化されたトレーニング(これこそが科学的トレーニングの定義であろう)」を日々「実践」しようとし続けているわけであり、その意味で学際的にならざるを得ない。
そういうレベルの高い「実践」に関わろうとした瞬間に、我々研究者は、自身の研究の「可能性」と「限界」を同時に感じることとなる。
そして、その可能性を最大化(限界を最小化)しようと試みれば、当然、専門分野の枠組み(パラダイム)の超克を指向せざるを得ず、そこに総合研究(ひとり学際)の萌芽が見て取れるのである。

ひとり学際に基づいた総合研究というのは、自分自身のなかにある問題意識を切り刻まないで、それを最後まで大切にするところに特徴がある。総合研究においていちばん大切なのは、「問題意識」である。…問題意識を、専門別に切り刻むのではなく、多面的な問題意識に合わせて、専門分野の方を様々に切り取ってくるのだ。…私の問題意識に合わせて、たとえば社会学からはこの知識、心理学からはこの手法、生理学からはこのデータというふうに、自分の方に引きつけてくるのである。そして、自分の知性と構想力によってそれらを組み合わせて問題解明のツールとする。このことによってわれわれは「総合研究」へと向かってゆくのだ。
(前掲論文より抜粋)

問題意識をひとつの専門分野の枠にはめ込むのではなく、問題意識に合わせて多様な専門分野を利用していくことがポイント、という主張である。これは、ドスの如き鋭さをもって、我々の首根っこにつきつけられた「問題意識」でもある。