凍

最後に沢木耕太郎を読んだのはいつだろうか。
若かりしころ(?)、円谷幸吉氏やカシアス内藤などのアスリートに関するルポをまとめた『敗れざる者達』や、社会党委員長である浅沼稲次郎と彼を襲った若きテロリスト山口二矢の交錯を描いた『テロルの決算』などを耽読した。
その余勢で、かの『深夜特急』にも手を伸ばし、ユーラシア大陸を横断中に異国の美女と艶めかしい関係になる自分を想像したりしていた(恥)。
本箱を眺めると、その頃の記憶がかすかに蘇ってくる(娘よ、本箱の本をぐちゃぐちゃに入れ替える遊びはやめれ)。
恐らく『チェーンスモーク』『バーボンストリート』といったちょっと気取ったエッセイの類を最後に、私は沢木から遠ざかっている(ほぼ10年か…)。当然、その後話題になった『壇』も読んでいない。
さて、この本。
『凍』というシンプルなタイトルと、酷寒の岩壁を暗示するような冷たいまでに青い装丁に惹かれて衝動買いしていたが、何故か今日まで「積ん読」状態だった。
ちなみに、この本は娘のおもちゃにはなっていない(なぜか新書だけを狙う)。
で、一気に読んでしまった(ほとんど徹夜)。
いやはや、これは凄い…
これまでの(私の知る)沢木は、バーのカウンターでたばこを燻らしながらバーボンロックを揺すっているというか、気障というか、外連があるというか、つまり対象の人物について語りながらも、彼のストイシズムやヒロイズムをプンプンさせていた(それを嗅ぎたくて読んでいたのだが…)。
しかし『凍』では、作家の匂いは背後に消えて、山野井泰史というクライマーの人間性や妻(妙子)と共に挑んだものが圧倒的なスケールで迫ってくる。
著者が感情移入するまでもなく、壮絶な体験と並はずれた事実がもつ重さがそこにはある。
もしかすると沢木は、自らの筆致に窒息しかけていたのかもしれない(おお、ここでも酸欠)。
それが、この山野井泰史という稀有の人間に出会い、その息づかいを伝えようとすることによって、感情をおさえ、奥深さをもつ、新たな筆致にたどりついたのではないだろうか。
この本に、作家とその対象の幸せな関係をみることができるが、その関係を成立させるためには、かくも過酷な現実が必要だったということでもある。
山野井が、ギャチュンカンの北壁に挑む前に手帳に草した一文がある。

最新の装備に囲まれ、ピンク・フロイドを聞きながら
生きて帰れないかもしれない山に挑戦する私
かたや、父を亡くした十三歳の少女は
ヤク・ドライバーとして厳しい環境で働かなくてはならない
一枚のビスケットに幸福を感じながら
これでいいのか
自分の人生は間違っていないのか
しかし、残念ながら、あの山を見ると、登らざるをえない自分がいる
(前掲書より抜粋)

スポーツとは、シンプルに言えば「遊びの性格を持ち、他人との競争もしくは自己との闘いという形態を取るすべての身体活動ICSSPEの定義)」である。
「遊び」は、「気楽なもの」という意味ではない(そういう意味もある)。
スポーツがこの世に存在しなくても、生活・生存のレベルで困ることはない。スポーツとは、本質的にはそういう性格のものであり、故に「遊び」の一形態と言えるのである。
その意味で、生死をかけた過酷なクライミングもまた「スポーツ」であり「遊び」である。
僅かな酸素を取り入れるための呼吸器官から、劣悪な環境で乏しい栄養を摂取するための消化器官、指を失ったときの手の触覚、視界を失った時の聴覚に至るまで、まさに自らの全てを総動員し、常に死を意識しながら危険を克服し、頂きへと向かっていく究極の「遊び」なのである。
生物としての人間の全てを使い切るクライミングという「スポーツ」を「遊んで」いる山野井夫妻に、何度もどつかれたような感触が残っている。
この本に出会った意味を、今から考えなくてはならない。