ガクモンノオススメ

moriyasu11232008-03-07

半世紀以上前のことらしいが、ハーバード大学で有名なロシア文学作家を教授として招聘しようという話が持ち上がったときに、ハーバード大学教授にして世界的な言語学者が反対の急先鋒となり、結局その人事が流れたという話がある。
誰かが反対して人事が流れるなんてことは(大学に限らず)珍しい話ではないが、このときの議論がなかなかに面白い。
その世界的な言語学者は、「氏が優れた作家であることは認めるが、象学の講義のために、本物の象を大学に教授として呼ぶなんて話がどこにあるのだろうか」と教授会の席で主張したという。
彼は、おそらく「群盲象撫」ということわざ?を知らない(もし知ってたら論理矛盾に陥る)。
なぜなら、それは研究対象(お、ここにも象)の細部に分け入ろうとするあまり、全体像(全体象?)から遠ざかっていくことを揶揄したものだからである。
その彼が、「象」をモチーフとしてこの人事に反対しているところに、この話の別のおもしろさがある。
無論、これは一種の「伝説」であって、本当に一言一句この通りの発言をしたかについては保証の限りではない。
しかし、この両人の資質の違いを考えると、いかにもありそうな話でもある。
日本ではこの逆、すなわち本物の象?を大学教員として雇用するために、少々強引な裏工作をしたなどという話が聞こえてくることも時としてある。
したがって、ここで重要なことは、これが実話かどうかではない。
このエピソードから有益な教訓が引き出せるとすれば、それは真に「学問的」な研究とはどうあるべきかという問いを立てることにある。
優れた作家が、そのまま優れた文学研究者ではないというのは、象が象学の優れた研究者(研究象?)ではないのと同じことであって、一般論としては当然であろう。
ここで浮かび上がってくるのは、「ほにゃらら(by久米宏)研究」がはたしてそれほど截然と「ほにゃららそのもの」から切り離せるのか、体育・スポーツでいえば「体育・スポーツを研究すること」が「体育・スポーツの実践そのもの」から切り放せるのかという原理的な疑問である。
この疑問は、少し視点を変えれば、体育・スポーツ活動の「実践」またはスポーツを見ることから来る「感動」と、ある種の学問的手続きを経てその「実践」や「感動」を客観化・理論化していく行為が、はたして互いに全く無関係に存在しているのか、とも言い換えることができる。
「そんなことはあり得ない」と多くの体育・スポーツの研究者は答えるだろう。
しかし人間は、「『本当にそうであること』より、『そう答えるのが正解だと感じること』を答える」し、「自分の行ったことに対して、そんなに自覚的ではない」生き物である(by岩村暢子氏)。
おそらくその両者が複雑に絡み合っていて、容易に解きほぐせない関係にあるという点にこそ、体育学を含めた広義の「芸術」を扱う「学問」と、自然科学のような「精密な」学問との端的な違いがあるのではないか。
しかるに、体育やスポーツの「実践(すなわちパフォーマンス)」について、ある特定の学体系に依拠したパラダイム「だけ」で理解しようとする試みには限界があると言わざるを得ない。
「そんなことは分かっている」と多くの体育・スポーツの研究者は言うだろう。しかし人間は…(以下同文)。
最近の研究論文は、方法論的な精緻さや理論武装ばかりが目について、何が著者をその研究に駆り立てたのかがよく見えないものも散見される(が、そうしないと論文が通らない)。その反面、学生の書く卒論や学会発表(だけでなく私の論文)などでは、非常にナイーブに響く「学問以前」のことばを見かけることもしばしばある(だから論文が通らない…涙)。
しかし、それを「学問以前」として切り捨ててしまっては、おそらく研究そのものが成り立たなくなってしまうだろう。
体育学のような、広義の「芸術」を扱う「学問」であれば、なおさらである。
このような学問(研究)は、純粋な科学というよりは、むしろ科学(理論)と芸術(実践)の間を往復しながら、「体験的知識の理論的知識化」と、「理論的知識の体験的知識化」をくり返すことでしか成立しないのではないだろうか。当然のことながら、ここでいう「知識」には「身体知」が含まれる(あるいは逆かも)。
そして、その極みにあるのは、他ならぬ「実践」それ自体である。
体育やスポーツの「実践」を研究対象とする我々は、好むと好まざるとにかかわらず、この現実を自分のものとして引き受けることから始めるよりほかない(もちろん私はそれを好む)。
「現場の動きに卑屈に順応すべきだ」などといいたいわけではない(もちろん本物の象?を雇うべきだという意味でもない)。
今本当に必要なのは、自身を「学問」という名の「権威」からいったん解き放つことだと思う。言い換えれば、その「学問」が「権威」として存在することを可能にしている「枠組み」そのものを疑うということでもある。
自分たちのやっていることはすでに方法も体系も確立した「権威ある学問」であって、超然としたところで相変わらず権威(確固たるもの、正しいもの)であり続けられるといった思い込みから解放されない限り、真の学問研究(学際的・総合的研究)の端緒を開くことはできない。
そこから解放されて初めて、「ひとり学際(by森岡正博氏)」の道へ拓かれるのである(お、やっとブログのタイトルがでてきた)。
ごちゃごちゃ言ってねぇで、さっさと論文かけっ!という声も聞こえてくる。
無論、それもやらねばなるまい(うう、酸欠…)。