コーチングと科学の「間(はざま)」とは?(その2)

moriyasu11232013-07-11

前回(その1)からのつづき…

Evidence-based Coachingの確立に向けて
いわゆる「専門家」というのは、「他領域の専門家」との議論や協働によってはじめて自身の専門性の限界(何の役に立たないか)について自覚できるものだが、特定分野に閉じた専門家にはその契機が訪れにくい。なぜなら、同じ価値観、同じ専門用語、同じ基準での業績評価を共有する場では、自らの存在理由を説明する必要がなく、かつ有用であるという前提(合意)があるため「その知識や技術の必要性」や「他領域との協働」などについて根源的な問いを立てる必要がほとんどないからである。このことは、スポーツ医・科学の研究者だけでなく、スポーツ現場に立つコーチなどの専門家一般に共通する問題として指摘することが可能である。
拙稿「コーチングと科学の「間(はざま)」―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて『強化スタッフと研究者による試行錯誤』として、現場と科学研究の融合に求められる視点を提示する。

コーチングとスポーツ科学の“専門家”が協働するためには、「自分にはこれができる(有用性)」ということと同時に「これができない(無用性)」ということを正しく理解し、それを正確に他者に伝えるたうえで、その協働のあり方を模索する必要がある。そのためには、スポーツを研究対象として扱う学会が、スポーツの“実践”を始原とする学際的分野であるという視座に立ち、「コーチング(トレーニング)」というメタな問題意識の共有と互いの立場や関心についての相互理解を図る「場」としての機能を果たす必要があるだろう。
(拙稿「コーチングと科学の「間(はざま)」―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」抄録より抜粋)

最後に、研究と社会との関係を考えるためのメタ理論の一つである「モード論」を援用しながら、「スポーツ(科学)」を扱う学会の役割について私見を述べる。

現代社会と知の創造―モード論とは何か (丸善ライブラリー)

現代社会と知の創造―モード論とは何か (丸善ライブラリー)

【モード①】研究の価値がその学問体系への貢献によって決定されるようなモード。研究評価は研究者内部のピア・レビュー(同業者評価)によって行われ、研究成果は学術雑誌などの制度化したメディアに掲載されるものが重要であるとみなされる。学範(ディシプリン)が明確な知識生産の様式であり、研究テーマの設定から専門職への就職までが学範によって規定される。
【モード②】社会に開放された知識生産のモード。取り組むべき研究テーマは現実の社会に起きた解決すべき課題として現れる。課題の設定ならびに解決は特定の学範(ディシプリン)ではなく、社会の要請によって規定される。そのため、複数の学問領域にまたがる多彩な人びとのコラボレーション(協働作業)が行われやすい。
(byギボンズ氏)

モード論では、研究を「基礎と応用」に二分するのではなく、「学範(ディシプリン)」の関心に駆動されるモードと「個人や社会の関心」に駆動されるモードという「二つのモードの違い」と考える。
改めて言うまでもないが、現場と科学研究の融合に向けては、現場の要請によって規定された課題の「解決(どうすればお互いに満足する結果が得られるか)」の共有を前提とするスポーツ科学の研究者と指導者や選手との連携・協働を通した理論構築が必須である。
したがって、スポーツ(科学)を扱う学会には、その学問体系の全体像を意識しながらも、その中核をなす「スポーツパフォーマンス」を扱う学融的な知識生産と理論化および研究者養成が求められていることを述べて講演を締めくくる。
休憩を挟んで行われたラウンドテーブル・ディスカッション『コーチからみた学会(研究者)、学会(研究者)からみたコーチ』では、県内の有力指導者4名と学会員4名の計8名が登壇し約2時間にわたる白熱した議論が展開される(コメンテーターとして末席に加わる)。
様々なやりとりのなかで最も印象に残ったのは、学会(研究者)とコーチの「間(はざま)」を生じさせる「相互の目的・目標のズレに対する認識の欠如(目標と責任の相違)」と「実践者の内在的な世界および内在的な世界の言葉へのリスペクトの欠如(視点の相違)」の問題である。

学融とモード論の心理学―人文社会科学における学問融合をめざして

学融とモード論の心理学―人文社会科学における学問融合をめざして

異なる学問間の協力という面でいうと、学際的研究という用語がある。また、現場の実践者と研究者の交流という面でいうと、コンサルテーションとか指導・助言という用語がある。(…)
学際的(inter-disciplinary)な研究は、ある課題に関して複数の学問分野が研究を行うことであるが、個々の課題はあくまで学範内の興味であることが多い。また、学際的研究の場合には1つの課題の異なる側面を複数の学問分野がそれぞれ担当するのであり、課題そのものについて共同で作業/検討することは少ないし、ある分野の成果に対して他の分野が異議をさしはさむことでよりよい成果をめざすようなことはほとんどないと言ってよいであろう。学際的研究では、問題は共有されているが、その後の作業や解は共有されなくてもよいのである。(…)
コンサルテーションは、現場で実践をしている人が、その活動について専門家の助言や指導を受けるという意味合いが強い。現場で解決困難な問題について、一歩引いた立場からの助言は有用であることが多いものの、そこでは情報の「交換」というよりは「指導」が行われていることが多く、対等の立場で新しい知識生産が行われているとは言いがたい。
それに対して、学融的(trans-disciplinary)な交流では、実践者と研究者は対等であり、問題解決の妥当性についても厳しい相互チェックが行われることになる。
(byサトウタツヤ氏)

たとえば,スポーツバイオメカニクスとスポーツ生理学の「学際」研究は,お互いの学範が,何らかの事情でスポーツに関する諸問題や対象について研究しようと決め,それぞれの立場から研究をすれば事足りるが,「学融」研究は、実際に解決すべき課題がある時にのみ立ち上がり,その解決こそが目指されるのである。
この「学融的研究」とは、まさに「パフォーマンス向上」という課題(テーマ)を共有するコーチと選手および研究者が、互いにその「間(はざま)」に架橋し合う営みにほかならない。
以下に、実践者と研究者とが対等の立場で交流し、問題解決の妥当性についても厳しい相互チェックが行われた学融的交流の好例を紹介する。

競泳の松田丈志選手は、2008年の北京五輪において200mバタフライで銅メダルを獲得しました。その時の記録(1分52秒97)は彼の自己ベストであり、まだまだ成長を続けられると感じていた彼は、当然のように、次の2013年ロンドン五輪での金メダル獲得を目標に掲げました。
松田選手と当時の指導者であった久世由美子コーチは、金メダルを獲るための課題のひとつに「キャッチの効いた泳ぎを身につけること」を挙げました。バタフライでは、両腕で後方に水をかき、空中で腕をぐるっと前に回してまた手を入水させますが、その入水直後に水をとらえる動作をキャッチといいます。
日本では、キャッチより少し後の胸のあたりで水をかきこむ動作(プル)を重視する指導が一般的で、北京五輪までは、松田選手もキャッチでは少し水を逃がし、プルでダイナミックに水をかくようにしていました。しかし、世界のトップスイマーと隣り合ってレースを闘う中で、海外の選手が自分よりも早いタイミングで水をかき始めていること、すなわち、キャッチを効かせていることに気づき、自分が次のステージに登るためには、この技術を身につける必要があると感じたのです。
数値化とトレーニング考案
ここで、我々サポートスタッフの課題は2つありました。1つは、キャッチが効いた状態を数値化することです。感覚的にはわかるものの、データとして蓄積したり、よいときと悪いときを比較したりするためには数字として残す必要があります。そのために我々は、国内全てのレースで水中にカメラを沈め、映像をコンピュータに取り込み、時々刻々のスピードの変化を分析しました。キャッチと同時に加速が起こっているかを検証するためです。
もう1つの我々の課題は、キャッチが効いた泳ぎを身につけるための練習を提案することでした。我々は、フィン(足ひれ)をつけて泳ぐドリルを提案しました。フィンをつけるとキックによる推進力が飛躍的に高まり、自力で発揮できる以上のスピードで泳ぐことができます。その速いスピードでも遅れずに水をキャッチすることを意識してもらい、技術的な負荷を高めようと考えたのです。
しかし、久世コーチは、我々の提案に難色を示しました。スピードが高まると、どうしても手のひらにかかる力が小さくなり、これまで培ってきた力強い泳ぎが失われるのではないかと懸念したのです。久世コーチは、パドル(手に装着する水かき)を使用して手に加わる抵抗を増し、水をとらえる力を向上させるトレーニングを行いたいと考えておられました。我々の提案とはかなり違う意向です。スピードを重視すると力はおろそかになり、力を重視するとスピードがおろそかになる─この2択は正反対の結果を生じると考えられました。しかし、コーチの直感を信じ、パドルを使ったドリルを行うことにしました。ただし、その練習は、一日の練習の最初の方に、できるだけ高いスピードで行ってほしいと伝えました。疲労がなく集中力も十分ある時に、よい動きを繰り返して欲しかったからです。
前進と後退
(…)2011年の4月から11月にかけては、まさに理想的な変化が起きました。キャッチが効くようになり、加速のタイミングが早まったのです。ところが、2012年の4月にはまた元に戻ってしまいました。これは、前年の変化に自信を持った我々が、次のステップとしてキックの意識を変えることを提案したためでした。バタフライでは、キャッチを効かせるとどうしても上半身が起き上がってしまうので、それを打ち消してより効率よく前進するためにキックのタイミングを早めようと提案したのです。しかし、これにより泳ぎのバランスを崩してしまいました。キャッチは効かなくなり、加速のタイミングが遅くなってしまったのです。記録も低下しました。幸い、オリンピックへの出場権は確保できましたが、順調に記録を伸ばしていた時に水を差すような形になってしまったのです。一部の報道では、「科学的サポートは役に立たない」という批判の声も上がりました。しかし、松田選手は、「キックのタイミングは気になっていたポイントなので、いずれ改善したいと思っていた。うまくいかなかったのは確かだが、オリンピックの半年前に課題を整理することができてよかった」とコメントしてくれました。
この後も様々な調整を繰り返し、松田選手はロンドン五輪に臨むわけですが、最終的には、前回に続いて銅メダルという結果でした。記録も1分53秒21と自己ベスト更新はなりませんでした。2大会連続のメダル獲得は大変立派な成績ですが、やはり本人の目標は金メダル獲得でしたから、さぞ悔しかったことだろうと思います。我々もオリンピック半年前の判断ミスがなければ…と責任を感じています。
科学的サポートの役割
さて、みなさんの目には、この一連の科学的サポートのあり方はどのように映ったでしょうか。少なくとも、科学的な測定や分析が、どんな場合にもよい結果を生むわけではないことがご理解いただけたと思います。それでは、スポーツの競技力向上のために科学にできることはいったい何でしょうか。松田選手のようなトップアスリートは、体力と技術が最高のレベルで調和しています。しかし、更なる競技力向上のためには、その調和を一度崩す必要があります。これは非常に勇気がいる挑戦です。このような挑戦は、誰も成し遂げていないこと(スポーツに限らず、勉強でも仕事でも同じです)を達成するときにはどうしても避けて通ることができません。私は、その挑戦を後押しするのが科学の役割だと考えています。問題を構成する様々な要素に優先順位をつけ、改善すべき点を見つけたり改善の方法を提案したりして選手とコーチに納得してもらい、挑戦に必要な強い意志を引き出す、それが科学的サポートの役割だと考えています。
トップアスリートが勝負を終えて発する言葉には、それが勝者であれ敗者であれ感動を呼ぶ何かがありますが、そこに到達するまでにどんな試行錯誤があったのか、どうやってそれを乗り越えたのかというプロセスにもう少し目を向けると、感動以上の、自分の生き方に直接的に役立つ心身の操作法が見いだせるかもしれません。
(窪康之『科学的サポートとは』Sports Japan 2013年7・8月号(vol.8)より抜粋)

上記は、先のエントリー(その1)冒頭記事への回答(反論)ともいうべきものといえるだろう。
出身ラボの学兄(年下だけど)である氏の論考に触れて、院生時代にボスから繰り返し教え諭された以下のことを思い起こした。

スポーツバイオメカニクス20講

スポーツバイオメカニクス20講

スポーツバイオメカニクスでは、体育やスポーツにおける運動や人などが主要な対象となる。そして、「人の動きがどうなっているか」(運動の記述)、「なぜそのような動きになるのか。どんな筋力や外力が働いているのか」(運動の原因の説明)、「どのようにしたら、うまくできるか。よくなるか」(運動の改善や最適化)、そして、「こんな動きはできないか。こんなことはできないか」(運動の創造)を常に考えることが重要である。
(by阿江通良氏)

実社会においても、いわゆる現場の人間は様々な知見の活用について日常的かつ学融的に試行錯誤している。
例えばゲーム機の開発などでは、インターフェース設計には心理学や生理学、ソフトウェア開発には脳科学、回路設計には工学、価格づけには経済学…などなどの学問的知見を応用しながら、製品開発および最適化を図っているはずである。
さらに言えば、巷間みられる新規性の高い実践や成果のほとんどは、いわゆる「学融」プロセスの集積であり、いまさら何か目新しいことのように言うのはおこがましいという批判もあるかもしれない。
しかし、このような「学融的交流」や「知識生産」のプロセスについて、様々な分析ツールを駆使しながらその妥当性や普遍性について検証し、得られたエビデンスを(当事者レベルを超えて)伝え広めていくための「科学的な記述」として蓄積していくことが「科学」の大きな役割であり、我々に与えられた課題でもあると再認識した次第である。
コーチングと科学は、「演繹と帰納」、「質的と量的」、「芸術(Art)と後(Art)追い」などの様々なキーワードによって二元論的な相対関係で語られることも少なくないが、「科学的なコーチ」や「科学的ではない研究者」が少なからず存在することをみるまでもなく、その前提となるべき「科学的な態度」には共通する部分があると思われるのである。
もちろんこの「態度」は、メディアの方々にも不可欠であることは言を俟たない。
というわけで、大変僭越ではありますが、本日から拙ブログのタイトルを「ひとり学融日記」に改めますことを申し添えます。
なかなか更新も儘なりませんが、今後ともよろしくお願いいたします。

コーチングと科学の間(はざま)とは?(その1)

moriyasu11232013-06-30

日本は年27億円の国費を五輪選手の支援に向けている。スポーツ科学の専門家が助言する「アスリート支援」はその一つ。北京五輪に続いて競泳男子200メートルバタフライで銅メダルを獲得した松田丈志は、助言に従って泳ぎ方を変えたことがある。4月の日本選手権の前だった。
バタフライには両手を前に出したときの第1キックと、両手を後ろにかいたときの第2キックがある。松田の泳ぎを分析した専門家は、第2キックを早めて両手をかききる前に打つように勧めた。足と手の2段階で力を出せば効率よく推進力を得られるはずだという提案で、マイケル・フェルプスの泳ぎをモデルにした。
松田は取り組んだが、タイムは変わらなかった。日本選手権の記録は1分54秒01。昨年の世界選手権とまったく同じタイムだった。
ハードな練習の感触ほど速く泳げなかったと松田は感じ、専門家と改めて話し合った。「あとは自分の感覚でやってみます」
それからは、手と腕で水をかく技術に意識を移した。たとえば板(パドル)を指先で持って泳ぐ練習。普通、パドルは手のひらに固定するが、そういう練習法があると平泳ぎの北島康介から聞いたのを思い出し、試すと水をかく技術を磨くのに効果的だった。
スポーツ科学が無用だったわけではない。最後の追い込みをした高地練習では、血液検査で疲労を確認しながら練習の強度を限界まで上げた。苦手のスタートとターンの対策では、筋力トレーニング時の動きを理学療法士に見てもらい、背中と腰の動きを改善した。
だが、速く泳ぐために体をどう動かせばいいのかを見つけるのはいつも自分の感覚だった。「科学の専門家の意見に従うだけなら、ただ迷っているのと同じ」
陸上長距離で圧倒的な強さを誇るケニア人の速さの秘密を探る科学者が世界中にいる。バルセロナ五輪の男子3000メートル障害銀メダリストで今はコーチとして活躍しているパトリック・サングにそのことについて聞くとこう言った。「科学者は速い者が速い理由を知りたがる。すでにわかっていることを、彼らの方法で証明するにすぎない」
遺伝から生活習慣まで諸説あるが、科学はケニア人の速さの理由を特定できていない。
科学は理解を助けるが、科学でメダルをとることはないだろう。
(2012年8月8日 朝日新聞デジタル〈五輪を語ろう〉メダル、科学だけでは取れぬ」より抜粋)

上記の記事は、昨年8月3日に紙面掲載されたときのタイトルが「科学では…取れぬ」だったが、Web掲載時には「科学だけでは…取れぬ」に変更されている。
タイトル変更の理由は判然としないが、「科学(だけ)でメダルを取れた」とは一体どういう状況なのかが示されていない(無理だろうけど…)だけでなく、松田選手および競泳とは無関係の第三者の断片的なコメント引用から結論が導かれているあたりは「結論ありきの恣意的なレトリック(by某私大准教授)」と酷評されても致し方あるまい。
とはいえ、我々「スポーツ科学」の研究者には、この手のレトリックに対してどのような説得的なロジックを提示できるのかが問われているともいえる。
・ ・ ・
昨年の7月、大分県スポーツ学会主催の第2回ワークショップにお招きいただいた。
会の冒頭、仕掛け人?である九州本部氏から、「おおいたコーチングサミット―(その1)本学会は指導者に対していかなる貢献ができるのか―」というテーマを設定した趣旨について説明がなされる。

スポーツ指導(コーチング)の現場と研究(科学)は、生産的な関係性を築けているのでしょうか? スポーツ科学への関心を抱きつつも、まだまだ「経験知」を尊ぶコーチングの現場が存在しています。見方を変えると、科学者は数々の「経験知」を有する指導者たちの声にどれほど傾聴できているのでしょうか。 本ディスカッションでは、コーチングと科学をめぐる「間(はざま)」の存在を自覚し、両者間のあるべき関係性について議論・検討を深めてみたいと考えています。

引き続き、1時間ほどの時間を頂戴して『コーチングと科学の間(はざま)―学会と指導現場に求められる関係性とは―』というテーマで自身の試行錯誤について紹介する。

スポーツトレーニングにおける総ての基本的「手段」は運動であり、その基本的「方法」は種々のタイプの反復にある。
これらの運動は、専門とするスポーツ競技の試合運動の基本的な運動形態・機能を基準に、より近縁関係にある「専門的運動」(試合的運動を含む)と、反対により遠縁関係にあり理論的にはあらゆる運動を含む「一般的運動」とに大別される。
これらの運動はまた、それぞれに内在する多面的な側面とそれらの諸細目によって理論的に特徴づけられ、明示的(時には非明示的)なトレーニング課題や目的として扱われる。
これらは技術(戦術を含む)、体力、および心理面であり、更にそれぞれで諸細目に区別される。しかし、総ての運動自体は不可分な全体としてのみ現象し、これら多面的側面とそれらの諸細目は、観察者の意図と観察装置とに基づく一定の定量可能な範囲での相互作用による観察結果に過ぎない。
(村木征人「相補性統合スポーツトレーニング論序説: スポーツ方法学における本質問題の探究に向けて」スポーツ方法学研究21巻1号より抜粋)

講演の冒頭、「観察」や「分析」とは、ある部分にフォーカスするために他の部分を無視するという「理論負荷性」を負うことが不可避な営みであるが、この「不可逆性」への挑戦こそがコーチングと科学の「間(はざま)」を架橋する営みでもあることを確認する。

エビデンス(根拠)とナラティブ(物語)
「根拠に基づく医療(Evidence-based Medicine)」の本来的な意味は、研究によって得られた「最良の根拠(エビデンス)」と「臨床家の経験」および「患者の価値観」などを統合し、よりよいケアに向けた“意志決定”を行うことにあるが、このエビデンスの活用プロセスには、①臨床現場の問題意識から発せられる「クリニカル・クエスチョン」の立て方、②患者や一般人への伝え方および反応のフィードバック方法、③エビデンスが「使われ過ぎる or 使われなさ過ぎる(エビデンス・診療ギャップ)」などの課題も併存するといわれている。このような課題を踏まえて、患者自身が語るナラティブ(物語)から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人的なアプローチを試みようとする臨床手法(Narrative-based Medicine)の重要性も指摘されている。今日の医療にいわゆる「エビデンス」は不可欠なものとなったが、臨床現場にはそれだけで対応しきれない場面があることも言を俟たない。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

上記の「臨床家」を「コーチ」、「患者」を「アスリート」に置き換えれば、客観的(量的)に測定可能な事象と主観的(質的)な事象が同居するスポーツ現場に関わる研究分野への指摘として読み替え可能であり、これらのことを踏まえれば、コーチングと科学の「間(はざま)」は、以下のような問題によって生起されると考えられる。

  • 理論負荷性)「客観的な事実(理論)」は、常に「誰が」「どのように」観察したかに影響を受けるという認識の欠如。
  • (権力関係の相違)科学的コミュニケーションにおける権力関係に起因する「欠如モデル(教える側と教わる側)」の採用。
  • (目標と責任の相違)相互の目的・目標(研究? or 現場の問題解決?)のズレに対する認識の欠如。
  • (視点の相違)「実践者の内在的な世界」および「内在的な世界の言葉」へのリスペクトの欠如。
  • (コミュニケーションの考え方)「正しく」伝えることの過剰な重視による「わかりやすく」、「楽しく」伝えるという視点の欠如。

(荒川歩とサトウタツヤ「セク融・学融を妨げる要因の検討と構造構成主義による解決の可能性とその適用範囲立命館人間科学研究9号より抜粋および一部改変)

このような問題意識を踏まえて『アスリートと研究者による試行錯誤』をテーマに、トップアスリートとの関わりを通して学んだことについて紹介する。

研究方法の科学性
そもそも自然科学(≒量的)研究における科学性と、人文科学(≒質的)研究の科学性は異質なものである。一般的に、量的研究は、仮説の検証や一般性のある知見を生み出すことに向くとされているが、特定の前提(モデルなど)がなければ成立しないため「前提そのもの」を問うことはできない。一方、質的研究は、仮説の生成や前提自体を問い直すことが可能だが、仮説検証や一般性のある知見を生み出すには不向きである。
また、「一般性の高い知見(理論)」が、必ずしも多くの場合に有効とは限らないことにも留意すべきである。比喩的にいえば、「90%の人に当てはまるが、10%しか説明できない(一般性の高い)」理論よりも、「10%の人にしか当てはまらないけれど90%説明できる(一般性の低い)」理論のほうが、むしろ現場では役に立つことも少なくない。狭義の「科学研究」の枠組みにおいては、一般性の低い知見を提供する(と考えられている)「事例研究」の説明範囲の狭さを問題視するが、そのプロセスを適切に記述するための手続きが整理されていれば、複数の知見の組み合わせによって既存理論の修正および一般化が可能になることも十分に考慮されるべきである。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

我々がコーチや選手に提供する分析(量的)データは単なる「情報(点)」に過ぎないが、その背景にある質的情報(プロセス)を知るとデータの見え方(解釈)は変化する。
実はそこに「人間」が行う「スポーツ」を「科学」することの本質があると思われるのである。

コーチングのそもそもの意味は、「相手の望むところへ導くこと」と考えられる。
そして、その「望むところ」は、単なる客観的な目標に留まらず、その状態であったり、あるいは技術やスキルなどなど様々であるため、相対する人間の背景を知らず、また関心を寄せることもなくそこに導くことは、ほとんど不可能である。
相手の「背景」を知ると、その捉え方が「点」から「線(あるいは面)」に移行する。
(2009年12月24日 拙稿「背景への関心」より抜粋)

「線(面)」としての意味内容を可能な限り共有しようとすれば、互いの背景にまで意識が及び、表面的な「決めつけ」が起こらなくなくなり、より合理的な「判断」をするための「新たな問い」を立てることができる。

文武両道(理論と実践の往復)の本質
アスリートやコーチは、「事実=現実の世界で実際に観測されている事象」をもとに立論された「仮説=頭の中で考えられた検証される前の理論」に依拠しながらトレーニングを実践していくが、この「仮説」の妥当性が日々の実践のなかで繰り返し検証されることを通して「理論=実証された事象間の関連」が構築されていく。換言すれば、確固たる「事実」の裏づけがあり、かつこの「理論」に基づいて「事実」が起きていると多くの人に(または自分の中に)確信として現れたものが「(科学的)理論」ということになる。この「理論」は、それを「信じつつも疑う」こと、すなわち一端「構築」した理論を再び「解体」することの矛盾に引き裂かれながら「再構築し続ける」ことによってのみ洗練化が可能となるが、この作業は古の表現を借りれば「文武両道」、すなわち「理論と実践の往復運動」にほかならない。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて『乳酸研究をベースとした新しい評価方法の開発』というテーマで、乳酸が「疲労物質」ではなく代謝サイクルで「エネルギー源」として再利用されるという考え方に依拠した、新しいロングスプリントや中距離走のパフォーマンス評価法および指標開発の試みについて紹介する。

高いレベルの競技力を維持または向上させるためには、極めて高い体力、技術力および精神力はもちろん、トレーニングを合理的かつ効果的に遂行するための複雑かつ高度な循環型思考を働かせる必要があるが、この思考の精度・確度を高めるためには、日々のトレーニング実践にかかわる客観的(量的)および主観的(質的)な情報に基づく総合的な判断が必須となる。トレーニング負荷は、いわゆる体力論的には、運動の強度、時間、頻度および休息時間などの「量的」負荷によって決まるとされているが、そこで考慮されている心理的・技術的な「質的」負荷によって得られる効果が異なることは自明である。競技力向上に関する研究に求められているのは、これら様々な情報とパフォーマンスの「間(はざま)」で行われているコーチング(トレーニング)現場の試行錯誤について、様々な研究方法を駆使した学際的アプローチによって可能な限り精度よく検証・記述していくことであるといえるだろう。加えて、このアプローチには、それぞれ研究手法の特長や限界を理解しつつ目的に応じて取捨選択する能力が必須であり、それは1つの研究方法に習熟してそれを突き詰めていく能力とは異なることを踏まえておく必要もある。
(拙稿「コーチングと科学の間(はざま)―学会と(指導)現場に求められる関係性とは―」ワークショップ抄録より抜粋)

このような問題意識を踏まえて「コーチと研究者による試行錯誤」というテーマで、大学女子中距離選手とそのコーチが4年間かけて「理論と実践」を再構築していくプロセスに関わった経験について紹介する。
というわけでつづく。m(__)m

豊かなスポーツライフの素地とは

moriyasu11232013-05-27

昨年12月に末席を汚した座談会の模様が「初等教育資料(2月号)」の特集として掲載された(すでに3ヶ月が経過…)。
タイトルは「豊かなスポーツライフの創造 幼児期・児童期に育むべき豊かなスポーツライフの素地とは何か」。
メンバーは、司会の白旗和也氏(文部科学省スポーツ・青少年局参体育参事官付教科調査官)、上田栄治氏(公益財団法人日本サッカー協会)、上田由美子氏(神奈川県秦野市教育委員会指導主事)、内田匡輔氏(東海大学准教授)、盛島寛氏(岩手県九戸村立江刺家小学校長)と小生の計6人(所属・役職は3月末のもの)。
以下にその内容を再録する。

白旗 平成23年6月にスポーツ基本法が策定されました。これは、全ての国民が、いつでも、どこでも、いつまでも自分に合った運動との関わりがもてるような社会をつくることを基本理念としています。そこで、今日は様々な立場の方に集まっていただき、幼児期、児童期に育むべき豊かなスポーツライフの素地について、幅広く考えたいと思います。
1 各学校段階における運動の関わり
森丘 スポーツ基本法に「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは全ての人々の権利である」という文言が入ったことはたいへん意義深いと感じます。言い換えれば、スポーツに携わる人間は、公共財としてのスポーツの意義や価値、そして自身が果たすべき役割について再認識する必要があるともいえるでしょう。
盛島 国や地方公共団体へのメッセージとして、体育に関する指導の充実や体育に関する教員の資質向上など学校体育にも切り込んだ文言が入っています。運動・スポーツについては、誰もが経験するところが学校体育ですので、充実した体育をやっていくことで、豊かなスポーツライフにつなげたいと思っています。
国民の心身の健全な発達、明るく豊かな国民生活の形成、活力ある社会の実現などを目的としているスポーツ基本法は、教育で目指している「生きる力」そのものであると思っています。
白旗 以前のスポーツ振興法ではプロスポーツは盛り込まれていませんでした。
上田 スポーツ基本法のパンフレットには、なでしこJAPANがワールドカップで優勝したときの写真が掲げられています。オリンピックでは、銀メダルを獲得できました。私たちは文科省のマルチサポートを受けていまして、そのサポートが手厚くなったおかげでもありました。スポーツ基本法を受けた計画に基づき、科学的なサポート、医学のサポートなどを受けられることはたいへんありがたいことです。
白旗 体を動かす習慣づくりの出発点は幼児期でしょう。
山口 幼児期の教育は、「生きる力」の基礎を育成する重要な役割があり、幼児期に体を動かすことは、心と体が相互に関連し合いながら総合的に発達していく姿が見られます。体の発達については、体を動かす遊びは、多様な動きが獲得されることや遊びに必要な動きを繰り返し実施することによって動きが結果的に上手になり、洗練化されること大切です。
心の発達では、幼児が楽しく体を使っていろいろな遊びをすることで、社会性の発達や認知的な発達などを促せることが期待できます。
しかし、今の子どもを取り巻く環境は、日常生活がかなり便利になり、体を使って動かないことが普通になっている傾向があると感じています。
白旗 大人が理解していかないと推進できませんね。
山口 はい、そうです。特に乳幼児期は、身近な大人の姿勢が子どもに大きく影響してきます。今の子育て世代や若い保護者は、子どものころに体を使って十分に遊んできていないのではないかと感じます。そこで、幼稚園では、保育者も保護者も含めて、「体を動かすことは楽しい」ということを啓発していく必要があるのではないかと思います。また、近年、地域が子どもたちだけで安心して遊べない状況になっています。地域の方々とも連携した遊び場の確保も大切ではないか思います。
内田 今年の研究では、歩数計を使って子どもたちの歩くパターンを調べました。登園時、園内活動、降園時と降園後の家庭の時間の平均を取ってみたら、降園時に最も多く歩いているのです。いかに登園のときには時間にせかされて一直線に来ているか。または車で来ているとかいうのが見えました。そして降園後に家で全く遊んでない。そこで、その園の活動で、降園後に、安全ということも含めて、子どもたちを園庭で遊ばせる時間をもっと取ろうという話になっています。
また、体力測定を実施した園の先生方からは、「普段の遊びが偏っていると思いました」と言われました。走り回ることはたっぷりやっているけれど、跳ねるとか、跳ぶとか、体を支えるとか、特に投げるという動作は遊びとして入れていなかった。
盛島 小学校の体育の場合は教師の課題も大きいのではないかと思います。小学校では体育は各教科等の中の一教科なわけで、指導者、学級担任により得意、不得意があるなどします。すばらしい授業実践をしている方もたくさん知っていますが、まず、教える側のレベルアップが一つの課題です。子どもにも運動ができる子・そうでない子がいますがそれは、運動を経験しているか否かだけの差だと思うのです。学校体育は必修なのでどんなに運動をしない子でも、週三時間は必ず運動します。そこで充実した体育の授業を行うことをいちばん大事にしなければならないと思っています。特に、体つくり運動が小学校から中学校、高校まで全ての学年で必修になりましたので、幼児の遊びからつなげて、低学年・中学年で、いっぱい体を耕しておかないといけないと思います。
白旗 大学生がかなり運動から離れていると聞きます。
内田 大学の大綱化で、体育が必修ではなくなっている状況があります。ただ、本学は、三年前から、体育を必修に戻しました。新体力テストの内容を授業で行うのですが、「なんで高校までやってきたことを大学でやるの?」という抗議に近い声も聞かれます。今の自分の体力はどれぐらいか、何ができるのかを確認をする意味だと話をしても、なかなか自分の身体の問題として具体的に理解できない実態があります。私は中学校と特別支援学校の教員をしてきたのですが、体育の授業の中で彼らがどんな学びをしてきたのか自省の念を強くもっています。
本学を卒業した方々にご協力いただきながら教科書をつくりました。後半部分にはいろいろなスポーツが紹介されているのですが、ゴルフ、キャンプ、ダイビング、サーフィン、セーリングのページで学生の反応がいいことは面白いですね。これもスポーツだったのだと思うのでしょう。臨海学校を開く学校が減ってきていると聞きますが、体験型の体育・スポーツが抱える面白い側面を削り取っているのではないか思っています。
白旗 学校の体育では、運動の関わり方を学ぶことが重要です。それは、一人一人違うので、究極的には、個に応じた指導が重要です。価値観が一つしかないと、結局は優劣を付けることになってしまう。また、男性、女性でスポーツへの関わり方が小さいうちから違いが出てきてしまっている。今、女性の運動離れが大きな問題となっています。
2 女性の運動離れの現状と課題
上田 私は10年前までサッカーは女性のスポーツではないと思っていました。しかし、なでしこジャパンの監督になってから、女子のサッカーにもこんなによいところがあると気づきました。現在、なでしこジャパンの活躍によって、女性もサッカーで世界一になれるという希望が見えて、やる子が増えてきたと思います。ただ、小さいころからサッカーをやる子が増えても、中学校では激減してしまいます。それは部活動がない状況があるので、そこを解決していきたいと思っています。
森丘 文科省の調査では、一週間に60分未満しか体を動かさない子どもたちの約七割が運動やスポーツが「好き」で、約半数が「もっとしたい」と回答しています。運動が得意でない子どもは、いわゆる競技スポーツの場に入って楽しむということはなかなか難しいですが、ニュースポーツや非競争的なスポーツであれば、勝敗の未確定性や体を動かす「楽しさ」を味わうことができる。逆に言うと、スポーツの側が、そういう子どもたちにどのようにアプローチするべきかをリアルに考える必要があると感じます。学校体育では、できるだけ多くの子どもが楽しめるように用具やルールを工夫しますが、そういう場や仕掛けをどう拡げていくかがポイントになるのではないでしょうか。
もう一つ、先ほど性差の話でいえば、今年のロンドンオリンピックでは、初めて全ての競技に女子の参加が可能になりました。こうした男女格差なくす方向性は大切ですが、一方で、かつてのゴム飛びのような女子特有の運動の楽しみ方も含めて、スポーツの量的な広がりと質的な深まりを立体的に考えていく必要があると感じます。
白旗 中学校へ行くと、より一層女の子が運動をしなくなってくる。部活をしている子たちだけが運動している状況です。ですから、部活動が鍵を握ります。文部科学省でも、新しい部活動の形態を考える事業の予算が付いています。
上田 小学校では女子全体の70%の子が男子と一緒にプレーしています。ところが、中学校になると男子と一緒にやるのが難しくなってしまう。運動能力的にも大きな差が出てきて、サッカーを止めてしまう少女がたくさんいます。そして、高校に行くとまた女子の部活でサッカーを始めるという状況です。
今年から文部科学省で運動部活動地域連携再構築事業ができたのですが、私たちがモデルにしているのは、江東区で2008年から始まった取組です。一つの拠点校をつくって、周辺にある中学校のサッカーをやりたい女の子たちが週に二回集まって部活をやる。それを江東区の部活としている例です。今後少子化にもなるし、複数校で部活をするなど、ハードルを低くして、週に一回とか二回という頻度でやれればいいと考えています。
白旗 しかも兼部ありなので、吹奏楽部の週一回だけサッカーをやってみたいという子が集まります。今までの部活動を全面否定するわけではないですが、それだけでは、始めから不得意だと思っている子は部活に入る余地がない。ここを少し変えていこうということです。
3 運動を考える上での遊びの重要性
内田 本学で二年前から始めている活動ですが、トップアスリートが使うような陸上競技場などを昼に開放するようにしています。そうすると学生がそこに来てバスケットボールをして遊んだり、ラグビー場を裸足で走り回ったりしています。ボールも自由に貸し出せるようにしていて、学生証を出せば自分でボールが借りられるので、それをもってスポーツをするとか、ディスクゴルフをやるとか、そういった場所づくりをしています。授業でそれを取り上げることで、学生がまたやりたいという思いをもてるようにしています。スポーツに親しめる状況を選択できるようにしてあげることが、生涯スポーツにもつながっていく一つの大学の在り方かと思っています。
白旗 今の話を聞いていると、小学校の休み時間に近いような感じですね。
盛島 本校は、全校児童四二名です。意外と小規模校の子どもたちが外で遊ばないのは、ボールを蹴ってしまうと拾いに行く時間のほうが長いから(笑)。だから壁のある体育館で遊ぶ。遊ぶ場所はいっぱいあるのですが、人が少ないがために、なかなか活用されてないという現状もあります。田舎の子はいっぱい動くかというと、スクールバスで通って意外と動かない。それがかなり感じられます。
森丘 昨年度に策定された幼児期運動指針のポイントは、「多様な動きが経験できる楽しい遊び」を奨励することに加えて、毎日合計「60分以上」楽しく体を動かしましょうという数値目標が示されたことにあります。当初、数値目標は幼児教育になじまないというご意見もありましたが、「60分」はあくまでも一日の中の様々な活動を足し込んだ合計であり、そこには家庭での生活活動や休日の過ごし方なども含まれることから、園だけではなく家庭や地域を含めた社会全体の課題として「60分」を一つの目安にするということで合意に至りました。
白旗 もし60分を取ってしまい、「毎日たくさん楽しく体を動かすことが望ましい」では、当たり前でしょということになります。この数字は、三年間行った幼児期の調査やWHOの指針などから導き出したものですが、絶対的な基準ではなく、あくまで目安です。
山口 幼児教育の中で目標の数字を示すことに抵抗がありました。保育の中で子どもが主体的に体を動かして遊ぶ時間を保証してあげることが重要で、その結果が一日合計60分になったというとらえ方だと思っています。幼稚園教育要領では、五つの領域(健康、人間関係、環境、言葉、表現)が、相互に絡み合って総合的に指導しなければなりません。運動や体を動かすことは主に領域「健康」に示されています。この領域には三つのねらいがあって、「自分の体を十分に動かし、進んで運動をしようとする」、「明るく伸び伸びと行動し、充実感を味わう」、「健康・安全な生活に必要な習慣や態度を身に付ける」とありますが、遊びの中には、この他の四領域のねらいも含まれてくるわけです。
子どもたちが楽しく体を動かして遊ぶためには、教師は四つの役割を果たす必要があると考えました。
一つは遊びの仕掛け人になる。幼児の姿を踏まえ「やってみたいな」と思うように環境構成をつくっていくことです。
それから遊びの研究者になる。その遊びが子どもの体のどこの部位を使っているのか、保育の中では偏りがないか、いろいろな器官を動かし刺激を与えているかということを分析することです。
三つ目は遊びの伝道者になるということです。昔遊びはとても素朴な遊びだけれども面白い。そういう昔遊びを子どもたちや保護者に伝えることも一つの役割です。
四つ目は、教師は遊びの同志になる。励ましてあげたり、できたときに喜んであげたり、一緒になって遊ぶ役割があるのではないでしょうか。
内田 以前、研究で幼稚園に行く学生に「遊びを教えちゃだめだよ」と言って送り出したことがあります。ある学生は紙鉄砲をずっとパンパンと鳴らしていて、ある子はメンコをやって、ある子はバトンスローをつくって遊んでいて、子どもが来たら、一緒に遊ぶという活動を二か月間継続しました。終わって一年たって体力テストを行ったところ、楽しかった運動が引き継がれているのです。遊びでも自主的に取り組んだ子たちは、その後も獲得した動きを継続して発揮するというのが見えてきました。
白旗 様々な仕事でアスリートの人たちと話してきましたが、最初の話は子どものころの遊びについて聞くことに決めています。そうすると二極化で、特定のスポーツばかりしていた選手と様々な遊びをたっぷりしてきている選手がいます。
森丘 サッカーでは、ユース世代で選抜されている子どもたちの生まれ月が四月から九月に偏る傾向にあるというデータを示しています。セレクションを受験する子どもたちにもすでに偏りがみられることから、年度の上半期生まれの子どもたちは相対的に有能感が高いことが予想されます。国際的には、児童期は個人のスキルを向上させていく活動を中心にして、中学校期以降から徐々にチームスキルに移行させることが望ましいというガイドラインが出されていると聞いたこともあるのですが。
上田 日本は学校が四月始まりですよね。国際的には年齢制限のある大会は一月以降生まれからです。ですから、そこで日本の学年のくくり方と違ってしまうので、どうしても早生まれの子が出てこないという傾向にあるので注意しています。
森丘 陸上競技でも小学校の大会などでは同様の傾向にありますが、オリンピックや世界選手権の代表選手たちにはこうした偏りはほとんどありません。子どものスポーツに関わる大人は、発育や発達の遅速によって子どもたちの自律性や有能感が損なわれないよう留意しながら導いていかないと、スポーツを楽しめないことはもちろん、優れた才能を見逃してしまうことにもなりかねません。
盛島 幼児では、いかに遊びに引き込むかというところが大切であると思いますが、学校の場合は体育という場があるので、そこをうまく使っていく必要があります。ただ、様々な遊びを経験した子と経験してない子、それからそういうことが好きな子と好きでない子とかなり差が開いて小学校に上がって来るので、小学校ではみんなをどうやって授業に引き入れるかがいちばん大事です。その際、よい活動やすばらしい教材はありますが、担任任せでなく、それらを皆で共有できるシステムがないとなかなかうまくできない。体育は教える側が経験しないとなかなか教えられないのです。コート一つ引くにも苦労します。ライン一つ、長さ一つで子どもの動きが全く変わってきます。それから、子どもの管理の仕方やグルーピングも鍵を握ります。よい人間関係をつくる力も必要です。
4 インクルーシブな視点の必要性
白旗 体育は子どもが動いて授業をつくりますから、普段の教育活動の成果が体育で見えてしまうことがあります。そうするとインクルーシブ教育の理念も重要です。ノウハウがないと、対症療法的にしか対応ができないこともあります。
内田 先日行った研修の最後に「配慮を要する子に集合!と言っても並べないので、どうやって並ばせたらいいですか?」という質問がありました。そのようなときには、具体的にどんな行動をすればよいかの指示をわかりやすく伝えることが必要です。たとえば列をつくるときに、前の生徒の頭とその前の子の頭が重なって自分の位置取りをするとかです。
また、私は聾学校の教員だったものですから、授業のときには必ずホワイトボードを持っていき、今日の課題はこれですと書きながら行います。もちろん手話なども使いますが、生徒にきちんとした理解を促していくには、文字媒体がないと伝わりにくいです。何がねらいかということをきちんと伝えることが、どの年齢においても重要だと思います。
また、障がいのある子に、「見学していてね」というひと言で、その子の体を通した学びを奪ってしまっていることが非常に残念でなりません。驚いたのは、小学校からずっと見学してきたという女子学生がいたことです。彼女は、ボールを投げたことがないから、ボールを持って手から離すという感覚すらもっていない。そういった子たちの体育に対するイメージは悲惨です。ですから、簡単に見学にしないで、たとえば運動学習の課題の負荷を軽減するとか、走る距離が短くても、同じタイムで競えるならば、八秒間走といった教材の提供の仕方もあるでしょう。足に障がいのある子が、皆と一緒にテニスをやりたいというときに、コートの広さを変える工夫をしながら、クラス全体がどう工夫していくのかということも先生のチャレンジだと思います。
先生方は、勝ち負けだけでなく、一緒に楽しむことができたことの意味をどれだけ共有できるのかという軸ももっていないと体育・スポーツの広がりが平板なものになってしまうように思います。
白旗 体育を教えている教員は圧倒的に小学校が多いのです。小学校は女性の先生が多いのですが、サッカーをやったことがないという先生たちが、授業でサッカーを中心としたゲームを教えなければいけない。これは大きな課題です。
上田 小学生の授業の中で初めてサッカーをやるという子が多いと思いますが、そういう意味では、そのときの指導者が非常に重要だと思っています。これから小学生年代の教師の方、特に女性の教師の方には、サッカーはこういうスポーツなのだということをわかりやすく講習することを考えていきたいと思っています。小学生ですから、ボール遊びから入っていってサッカーにつなぐというところを簡単にやれるように指導していくということができればと考えています。小学生年代には心と体の大切さを学ぶということもあります。また、大人が関わることの大切さも感じています。
白旗 体育の場合、内容として、技能がありますが、それ以外に態度という内容も位置付けられていて、協力とか、公正な態度とか、安全に気を付けるとかいうことが学習の中身になっています。また自分がもった目標に対してどう近付いていくのかという思考・判断も学習内容になっています。そういうことでは体育は生きる力を育てやすい教科です。
内田 体育では、相手のことを理解することも重要ですね。授業で卓球をするときに、左手でやってみようとか、ラケットを肘にはさんで打ってごらんといった、自分ができている活動から、できなくする体験をしてみると価値があります。私たちは脳の中で客観的に動きを捉えられるから上手にできるのです。それができないということは、脳の中で右と左が上手にコントロールできない。鏡の向こう側の自分と自分との整理がつかない。このような脳の中での、整理の仕方は、他者理解という部分では重要な点だと思うのです。
森丘 スポーツは、ある意味ルールで縛って不自由な状況の中でどうやってうまくプレーするかを競うものでもあるので、その辺りはスポーツの本質にもつながるような気がします。
5 運動に関わる家庭・地域との連携
白旗 さらに教科を超えて運動との関わりを広げていくためには、保護者や地域を巻き込んでいく必要があります。
山口 幼児期は保護者と過ごす時間が長く、親に依存していることがたくさんあります。ということは親自身の行動や生活を意図的に見直すことが、子どもたちに影響してきます。そうなると幼稚園と保護者の連携は、重要なことになってきます。例えば、園便りやクラス便りで、今の遊びの様子や重要性等をお知らせしたり、親子でできる遊びを紹介したりする。また、保護者からの感想や意見を聞き掲示板を通して保護者同士が情報共有できる場や懇談会では情報交換できる場を設けることも大切です。
そして、登園・降園時の時間帯を利用して親子でからだを動かして遊ぶ機会をつくるとか、地域の体育的な行事に親子で参加するよう促すこともよいと思います。地域の方に地域の子どもを知っていただくことで、地域で安心して遊べるような体制もできてくると考えます。
盛島 校長になって、学校というのは地域とともにあるのだなと強く感じています。私自身は地域を知ること、地域の人たちには学校の先生方を知ってもらうということがまず大事かなと思っています。地域では野球などのスポーツ少年団の活動がさかんです。人数が少ないので、三年生からレギュラーになります。それでも、村の大会で優勝したり、県大会に出場したりしています。また、バレーボールでは全国大会に出場するほど、指導者の方はよく指導してくださっています。それでもやり過ぎだなという部分もあります。ある程度仲よくなっていないと「やり過ぎ」とも言えないので、お互いに言えるような関係をつくりたいと思っています。
また、家庭には学習の手引きを出すのですが、その中に、昨年から体育の家庭学習も入れています。低学年だったら、逆さダンゴムシとか、壁倒立とか。親子でもやれるようにもします。うんていを端から端まで渡ることができるなどもあります。
白旗 ところで、つなぎということを考えていくと、校種のつなぎがあり、男女ということもあり、協会なども含めた業種のつながりまでありますね。
内田 スポーツ基本法の基本理念やスポーツ立国戦略の中には障害者という言葉が入ってきています。非常にうれしいのですが、実際に障害のある人たちが地域でスポーツができる体制があるかと考えると、限られた場所にしかなく、そこまで障害のある人たちが行けるかというと、非常に難しいものです。また特別支援学校は、地域から離れているところもあります。たとえば休日の学校開放などでも、自宅から離れた学校に通っていると、近い学校には行きにくく、また行ってもどうやって遊んだらいいかわからない。そういう現状のなかで、二週に一回、東海大学の施設を使って特別支援学校に通学する生徒の放課後活動を行っています。例えば大学の陸上競技場は陸上部のトップアスリートたちが練習しています。そこにスペシャルオリンピックスを目指して走っている知的障害者が来て一緒に動くという体制をつくる可能性もあると思います。これから大学は、もっと人のつながりを創りだすような場所になるべきだと思います。
上田 中学校や高等学校に女子の部活動をつくるということでいろいろな都市を訪問してお願いするときのことです。教育委員会の方や市長にもお願いしますが、文部科学省の事業でもなかなかスムーズに進みません。新しいことをするには様々な条件がありますので、仕方ないこともありますが、中学生年代はいちばん伸びるし、精神的にいちばん不安定で、小学校からのスムーズなつなぎの上でもスポーツに親しんでほしいと思うのです。スポーツ技能だけでなく、様々に学ぶ部分があるので、うまく連携ができないものかと思っています。スポーツをする機会をつくると子どもたちは非常に楽しんでやるし、規律も、礼儀正しさも学んでいきます。なでしこジャパンがなでしこらしさという言葉で表現されますが、日本女性のよさを引き継げるようなものができるといいなと思っています。
森丘 日本体育協会では、国民体育大会のような競技スポーツイベントから、スポーツ少年団や総合型地域スポーツクラブという日常生活に密着したスポーツ活動までの幅広い事業を展開しています。我々としては、「自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化」であるスポーツをより多くの人が生涯にわたって楽しめるようになることを目標としながら、そこに関わる指導者を中心とする関係者の方々に有益な情報を提供するだけでなく、具体的な活動プログラムなども提案していく必要があると考えています。現在は、多様な動きが経験できる遊びの「楽しさ」をベースとして運動やスポーツへの積極性を引き出すことを目的とした「アクティブ・チャイルド・プログラム」を作成し、スポーツを楽しむための基礎を培う大切な時期にある子どもたちに関わる地域のスポーツ指導者や学校教員への普及を進めています。
6 豊かなスポーツライフを送るために
盛島 学習指導要領はバランスよくできているので、それらをまんべんなく、どれも経験させるというところが大切です。そのためには年間指導計画をどのように組むかが重要です。学習指導要領は二学年ごとに提示されているので、二学年を見通して内容によっては、大単元を組むなどじっくり学習することを考えて欲しいと思います。小学校の場合は、そうやってできることを一つずつ増やしていく。ただ楽しいだけではなくて、できて楽しい。うまくなっているし、友達と関わってやるという本物の楽しさを味わわせたい。そのときはできなくても、自分はできそうだという運動有能感をもって学校体育を卒業できたら、いろいろなところに通じていくのではないかと思います。
内田 先ほど障害のある子どもたちの休日の活動をやっているという話をしましたが、今ではもう中学校の知的障害の生徒もいます。小学校低学年の頃から活動に参加していて、跳び箱を一度も飛べませんでした。だけど、何度も何度も汗だくになってチャレンジする。できなくてもたくさんやらせてもらえるので、バンと台を叩くのが楽しくてずっとやるのです。そういう活動をもっと提供していくことが重要だと思っています。
上田 私は、なでしこジャパンの選手たちの指導を通して、母親とか日本人女性のよさにつながる部分を感じました。単純に勝つとか技能を上げるとかだけでなく、我々はサッカーをはじめ、スポーツで日本人女性のよさを育んでいければと考えています。おおげさだと思われるかもしれないですが、スポーツの価値を広くとらえ、なでしこらしい選手を育てていきたいと思っています。
森丘 スポーツ少年団では、幼児加入への条件整備が進められていますが、今の活動内容のままで幼児を迎え入れるということではなく、どうすれば子どもたちがもっと運動やスポーツを好きになり、どのような積み重ねによってそれが人生にとって大切なものになるのか、そのための少年団活動とはどうあるべきなのかを考えながら、様々な取り組みを「改善」するきっかけにしなければならないと感じています。
幼児から高齢者まで、そして、アスリートも、個人のライフステージやライフスタイルに応じた運動やスポーツの楽しみ方が異なるとはいえ、運動やスポーツに動機づけられる「楽しさの根」は一緒だと思います。今後は、スポーツ活動を推進することによって社会にどのような貢献ができるのかについても考えながら、スポーツの意義や価値について、スポーツ界の「外側」に向けても積極的に発信していきたいと思います。
山口 幼児期は遊びを通して、「心情・意欲・態度」を育み、幼児一人一人が、自分はこれをがんばったのだという自信をもって小学校に進んで欲しいと願っていること。幼児期から体操・水泳・サッカーなどの習いごとや保育に運動指導者を招いて専門的な指導を受けることにより、幼児が興味を持って自発的に遊びに関われるよう保育内容を充実していくこと。現場の先生に任せるだけでなく行政も一緒になって幼児期の体力向上に取り組む必要があると思っています。
白旗 今日は幼児期、児童期に育むべき豊かなスポーツライフの素地とは何かという大きなテーマで、様々な立場の方にお話をしていただきました。
ありがとうございました。

最新スポーツ科学情報

moriyasu11232013-05-14

ブログの標題は、今年度から弊社の情報誌でスタートする連載タイトルである。
この連載では、小生の上司&同僚(日体協スポ研)および国立スポーツ科学センター(JISS)の研究員の方々から、いわゆる「スポーツ科学」の取り組みの最前線について分かりやすく紹介・解説していただくという企画である。
その連載初回の拙稿を再掲する。

そもそも「科学」とは?
「科学」の意味を辞書で調べると、概ね二つの意味内容に行き当たります。
ひとつはドイツ語の「Wissenschaftヴィッセンシャフト)」が意味する「一定の対象を理論や実証によって体系的に研究し、普遍的な真理を明らかにする学問(専門的知識の体系全体を指す)」というものであり、もうひとつは英語の「Science(サイエンス)」が意味する「自然における観測可能な対象やプロセスの法則性を明らかにする学問(主に自然科学を指す)」というものです。
日本語の「科学」は、哲学者の西周(にしあまね)が明治初期に学問全体を意味する「ヴィッセンシャフト」を「科學」と訳したことに端を発するといわれていますが、今日では「サイエンス」の訳語として狭義に用いられるのが一般的です。
このような「科学」の意味内容の変遷をみるにつけ、スポーツを「科学」することの本質について改めて考える必要があると感じます。
「科学的」エビデンスとは?
近年、医療現場で重視されている「根拠に基づく医療(Evidence-based Medicine)」の本来的な意味は、研究によって得られた「最良のエビデンス(≒科学的データ)」と「臨床家の経験」および「患者の価値観」などを統合し、よりよい「治療・ケア」に向けた“意志決定”を行うことにあります。しかし、実際には、エビデンスに対する無批判(使われ過ぎる)や無関心(使われなさ過ぎる)などの問題を抱えていることから、患者自身が語るナラティブ(物語)から病の背景などを理解することと合わせて治療やケアに活かそうという臨床手法の重要性も指摘されています。今日の医療にいわゆる「エビデンス」は不可欠ですが、臨床現場にはそれだけで対応しきれない場面があることも言うまでもありません。
前記の「臨床家」を「コーチ」、「患者」を「アスリート」、「治療・ケア」を「トレーニング」などに置き換えれば、スポーツ現場への指摘として読み替えることも可能です。
スポーツの現場には、医学的な臨床現場と同様、客観的(量的)に測定可能な事象と、選手やコーチの「コツ」や「イメージ」といった測定できない主観的(質的)な事象が同居しています。
また、トレーニングの負荷は、いわゆる体力論的には、運動の強度、時間、頻度といった「量的」負荷によって決まるとされていますが、その量的負荷に盛り込まれている心理的・技術的な「質的」負荷の相違によって得られるトレーニング効果が異なることも明らかです。
さらにいえば、私たちは、本来「不可分の全体(分けられないもの)」として成立しているスポーツパフォーマンスを便宜的に「心理」、「技術(戦術・戦略)」および「体力」的側面などに分けて観察や分析を行いますが、そもそも「観察・分析」とは部分的な焦点化のために他の部分を無視する行為でもあります。したがって、得られた結果(エビデンス)の解釈および有効活用のためには、パフォーマンスの全体像の理解や課題の優先順位付けへの配慮が必須となります。
いずれにせよ、前記のようなスポーツパフォーマンスに対する認識がなければ、たとえ最新の機器や高尚な方法を用いて得られた「エビデンス」であったとしても、スポーツ現場における「よりよい意志決定」にはつながらないでしょう。
「科学的」トレーニングの構築に向けて
アスリートやコーチは、日々の自己および他者観察をもとに「仮説(=こうすればこうなるはず)」を立ててトレーニングを実践していきますが、この「仮説」の妥当性が客観的(量的)および主観的(質的)に繰り返し検証されることを通して「理論(=こうすればこうなる)」が構築されていきます。
さらに、この「理論」の精度・確度は、それを“信じつつも疑う”こと,すなわち自ら「構築」した理論を自ら「解体」するという矛盾に引き裂かれながら「再構築」し続けることによってのみ高めることが可能となります。
今年の4月初旬、日本水連平井伯昌ヘッドコーチが、例年実施している日本選手権前の高地トレーニングを今年はやらないことにしたという報道を目にしました。記事には、『(高地トレーニングについては)僕自身、誰よりも理解していると思っている。だからこそ、この方法でしかアプローチできなくなるのが嫌で今回、決断した』という平井コーチのコメントがありました。
スポーツパフォーマンスの向上を図るためには、平井コーチのような超一流のコーチであっても、いや、超一流のコーチであればなおさら、自らの「理論と実践」を絶え間なく更新していく営みが不可欠です。したがって、「スポーツ科学」には、アスリートやコーチの営みについて適切なツール(観察・分析方法)の選択または組み合わせによって精度よく記述しながら、「よりよい意志決定(最適解)」に導くための「科学的エビデンス」を提示することが求められているといえます。
本連載では、様々なスポーツ現場で「最適解」を模索している研究者の「(科学的な)試行錯誤」についてご紹介していく予定です。この連載が、読者の皆さまの「理論と実践」を「再構築」する契機となれば幸いです。
(2013年5月6日 拙稿『スポーツ「科学」とは何か?』Sports Japan 2013年5・6月号(vol.7)より抜粋)

次回以降の内容をお楽しみに!

気がつけば2月末日

moriyasu11232013-02-28

ブログを始めて5年と少しがたちました。
おかげさまで本日までに20万を超えるアクセス(ページビュー)を頂戴しております(ありがとうございます)。
にもかかわらず更新がままならず申し訳ございません。
これに懲りずに気長におつきあい頂ければ幸甚です。
ご高配方よろしくお願いします。
森丘保典 拝

気がつけば1月末日

moriyasu11232013-01-31

昨年9月14〜16日に行われた「第67回日本体力医学会大会」において下記のシンポジウムが開催された。

シンポジウム7 体力科学から見た幼児期運動指針
座長:内藤久士(順天堂大学大学院)
1)幼児期運動指針の概要(作成の背景・視点)と展開─文部科学省の立場から─
 白旗和也(文部科学省スポーツ・青少年局
2)健康づくりのための運動指針(エクササイズガイド)からみた幼児運動指針の位置づけ
 田中茂穂(国立健康・栄養研究所
3)幼児期運動指針に対する保育現場の期待と不安
 春日晃章(岐阜大学
4)幼児期の運動実践と普及啓発への提言 ―アクティブ・チャイルド・プログラム普及啓発の経験から─
 森丘保典(日本体育協会

質疑応答では、質問マイクの後ろに10人以上の参加者が列をなし、予定の時間を15分以上超過するほど活発な議論が展開された。
史上初の「1ヶ月更新ゼロ」を回避するため、このときの抄録原稿を援用することとしたい(最近こればっかり…)。

運動遊びやスポーツを「する・しない」の二極化傾向に拍車がかかっているといわれる昨今,1週間の総運動時間が60分未満の児童(小5)が,男子で約1割,女子で2割以上に及ぶことが指摘されている(文部科学省調査).しかし,これらの児童の6割以上が運動・スポーツをすることが「好き(やや好き)」と答え,半数以上が「もっとしたいと思う(やや思う)」と回答していることは,しない理由がそれほど単純ではないことを示唆しているといえる.
現在,日本体育協会が普及啓発を進めている「アクティブ・チャイルド・プログラム(ACP)」は,子ども達の「楽しい」を引き出し,それを「続けたい」に繋げるための運動(伝承)遊び実践の提案である.ACPの講習会で用いる教材(ガイドブック&DVD)は,主に児童に関わる保護者,教員,スポーツ指導者をターゲットとして作成されており,①子どもの身体活動の意義,②基礎的動きを身につけることの重要性,③遊びの紹介,④場・しかけの重要性という4つの柱で構成されている.
本来,子どもは日常生活や様々な遊びを通じて自然に多くの動作(動き)を身につけていくものであるが,今の子ども達を取りまく環境は必ずしもそれを保証していない.また,スポーツ活動に積極的な子どもであっても,日常生活の身のこなしや取り組んでいるスポーツ以外の動きの不器用さが見られることや,特定の競技種目に偏ることによるオーバーユースの問題なども指摘されている.ACPで紹介している遊びは,面白さをベースとした積極性を引き出すだけでなく,ウォーミングアップ等に活用することによる全面性の開発など,スポーツ活動への相乗効果も期待できる.
また,子どもの時期は,同年齢でも生まれ月や発育発達の遅速によって体力・運動能力に差がみられる傾向にある.ACPでは,走ったタイムや跳んだ距離などの「量」では測れない「動きの質(できばえ)」に目を向けることの重要性を踏まえて,「走・跳・投」という基礎的な動きを質的に評価するための「観点(目の付けどころ)」を提示し,その観察方法について解説している.これらの動きは,多様な動きが複合的に含まれる運動遊びなどを通して洗練されていくことが望まれるが,子ども達の「続けたい」を引き出すためには,「できた!」という成功や上達の喜びが感じられる機会を増やしていくことも大切である.
運動遊びやスポーツは,身体的,精神的および社会的な恩恵をもたらすといわれているが,家庭,学校および地域にある「時間,空間,仲間(三間)」を今以上に増やすことは容易ではない.ACPでは,この「限られた三間」のなかで活動の「質」を高めている実践事例を紹介し,それぞれの地域や環境に合ったオリジナルな「場・しかけ」の工夫を促している.
以上,ACPの概略を述べてきたが,幼児を対象とした場合でも,具体的な活動内容や配慮事項が異なるものの,普及啓発の基本的なコンセプトに大きな相違はないと考えている.
広義の「体力」を海面に浮かぶ氷山に見立てた場合,海面上に姿を現している一角としての「測れる(測りやすい)体力」と,水没して観察できない「測れない(測りにくい)体力」に分けられる.一般的な体力分類に基づけば,量的評価が可能な各種体力テストの結果などは前者に位置づけられるが,「動きの質」や「動機づけ」など量的評価が難しいものは後者に分類されるだろう.私たちは,子どもの体力について様々な角度からの分析を試みるが,分析とは,ある部分に「焦点化(注目)」するために,他の部分を「無視」する営みでもあるため,その結果は直ちに「氷山全体としての体力」に還元できるものではない.しかし,氷山の土台が安定していなければ水面上の一角も貧弱で不安定なものとなってしまうなど,土台にも一角にもそれぞれに意味があり,かつ相互に関わっていると考えられる.重要なことは,各種テストをはじめとする「観察」や「分析」に常につきまとう注目と無視の間を架橋するために必要なものは何かを問うこと,すなわち子どもの体力に関する多様な情報(データ)から問題の本質を読み解こうとする「知性」である.
子ども時代の身体活動・運動の「持ち越し効果」を考える上で,「生涯学習」という視点は欠かせない.この学習の要諦は,一人ひとりの人間が,生涯を通じた様々な身体活動と関わりつづける過程で,「体を動かすこと」が,どうしたら人々の必要や欲求から出発する「自由な需要(好きになる)」に育てることができるのか,それはどのような積み重ねをへて確固たる「人生の価値(大切なもの)」になるのか,さらにはそのことが「生涯スポーツ社会」の構築にどのように寄与するのかについて,我々大人がリアルに問い続けることにある.
(2012年9月15日 拙稿「幼児期の運動実践と普及啓発への提言 ─アクティブ・チャイルド・プログラム普及啓発の経験から─」より)

来月は更新がんばります。

大晦日

今年も残すところあと僅か。
今年1年で41,000を超えるアクセス(ページビュー)を頂きました。
ありがとうございました。
なかなか更新もままなりませんが、来年もご笑覧のほどよろしくお願いします。
よいお年をお迎えください。