東京オリンピックの遺産

moriyasu11232012-12-18

11月12日から22日までの平日9日間、先のエントリーでもご紹介した東京オリンピック日本代表選手を対象とする4年に一度の追跡調査が、日本体育協会国立スポーツ科学センター(JISS)との共同研究により実施された。
12回目となる今回は、初回のオリンピック医学アーカイブスの対象者380名のうち、連絡先が把握できている方(282名)にアンケート用紙を送付して204名の方々からご返送いただくとともに、JISSにて実施された体力測定とメディカルチェックには119名(男性90名、女性29名)の方々にご参加いただいた。

「温故知新」という科学的態度
この追跡調査は、平均年齢で古稀(70歳)を迎えられた元トップアスリートが青年期に培った健康・体力の「持ち越し効果」に関する量的なエビデンスのみならず、引退後の多様なライフスタイルやスポーツ享受に関する質的なエビデンスを提供してくれている。診察や測定の合間の雑談でも、当時のトレーニング、合宿および遠征での苦労話、仕事と競技の両立、さらには現役引退後の仕事やスポーツへの関わり方などなど「ナラティブ(物語)」のテーマには事欠かない。そんなさなか、JISSの佇まいに目を細めつつ「今の選手達は恵まれているね」とおっしゃる方々、反対に「今の選手達は(スポーツが仕事なので)大変だね」と気遣う方々に笑顔で頷きながら、この半世紀でスポーツ界が「得たもの」と「失ったもの」について考えずにはいられなくなる。
治療困難な疾病が数多あった明治以前には、身体を含む「自然」の流れを重視する「養生」という概念があった。その代表例ともいえる貝原益軒の「養生訓」には、「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」という記述が繰り返し用いられている。「古典(Classic)」という言葉は「階級(Class)」の概念を包含しており、そこには長期間にわたって生き残っているものは上等であるという意味が付与されているというが、古典的な歴史や伝統を学びつつ、それを人々が持つべき良知・良識へと昇華させる温故知新とは、まさに広義の科学的態度と呼ぶべきものといえるだろう。
後世に贈り届ける「遺産」とは
昨年8月に公布・施行されたスポーツ基本法の前文には、「スポーツは、世界共通の人類の文化である」と謳われている。一般に「文化」とは、「人間が単なる生物的存在以上のものとして生の営みをよりよきものとするために、所与の社会において世代から世代へ創造的・発展的にあるいは変容されて受け継がれる行動様式の総体」と捉えられている。このことはすなわち、我々の社会におけるスポーツが、生活の質(Quality of life)に充実をもたらす「文化」として、世代から世代へ創造的・発展的に受け継がれ、その文化的機能を豊かに発揮しているかが問われていることを意味する。
昨今、「遺産(レガシー)」という言葉が流行のようだが、そもそもある営みや創造物の遺産的価値をリアルタイム(または事前に)に査定・考量できるとしたら、それは遺産という言葉の意味からして語義矛盾を生じる。「遺」という文字には「残す、とどめる、忘れる、失う…」だけでなく「贈る」という意味が付与されていることを参照するまでもなく、価値ある遺産となり得るか否かは、後世の歴史的文脈によって「事後的に」判断されるよりほかないのである。
スポーツが、国家的な身体統制や社会制度、さらには教育や健康の「手段」を超えて、日常生活の中で「楽しみごと」や「生きがい」として大切にされ、かつ「文化」として洗練されていくためには、先達が刻んできた「時間(プロセス)」を、温故と知新がともに可能となるような有形、無形の「エビデンス」として後世に贈り届ける必要がある。(…)
(拙稿『東京オリンピックの遺産(連載・スポ研Now)』Sport Japan(Vol.5)より抜粋)

ご協力いただいた全ての皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。
ありがとうございました。

アクティブ☆チャイルド☆プログラム講習会

moriyasu11232012-11-29

気がつけば「師走」も目前。
毎朝「日常という名の奇跡」に感謝しながら歩く登園路も冬の装いである。
そんな寒い冬の間(明後日から2月末)に行われる「アクティブ・チャイルド・プログラム講習会」に向けて勢い?をつけるために、2年前に行われた「アクティブ・チャイルド60min.─子どもの身体活動ガイドライン─」の出版記念座談会のテクストを再録する。

竹中 日本体育協会スポーツ医・科学専門委員会の研究プロジェクトで、「子どもの身体活動ガイドライン」を発表しました。この研究プロジェクトの目的は、日本の子どもに必要な身体活動量や行動目標を決めて普及啓発していこうというものです。プロジェクトの成果をまとめて、今後の普及啓発の道具としていくために、『アクティブ・チャイルド60min.』という本を出版しました。運動をしている子どもとまったくしていない子どもの「二極化」が指摘されています。私たちの研究プロジェクトが推奨する「毎日、合計して最低60分以上からだを動かそう」という行動目標、しかもその内容は通学やお手伝い、階段を上がることから子ども自身が楽しいと思える遊びまで、内容は何だっていいんだよという行動目標は、どんな子ども、たとえばスポーツに興味がない、得意でない、また勉強や習い事に忙しい子どもにとっても、行動の自由度が高くて実施可能です。何でもいいからからだを動かそうという提案は、子どもにとって、単に身体の健康づくりや不定愁訴の予防だけでなく、こころの健康づくりや社会性の強化など様々な恩恵をもたらします。
<現代の子どもに見られる諸問題>
水村 小学校教諭として子どもたちを見続けていますが、いまの子どもたちはとても忙しいように感じます。毎日、学校が終わると学習塾をはじめとする習い事に追われているようです。ですから、からだを動かして遊んでいる暇はないし、行き帰りも危険を避けるために親が送迎をするので必然的にからだを動かす機会がありません。スポーツ少年団などでサッカーや野球をやっている子どもたちは放課後もからだを動かして遊んでいるようですが、多くの子どもの遊びの内容は携帯ゲームが中心となり、なおさらからだを動かさないようです。「二極化」を目の当たりにしています。
小松 小学校の保健室に勤務していますが、最近の子どもたちはとても疲れているようです。一時間目の授業からすでに、机の上に伸ばした腕にぐったり顔をのせている子どもがいます。アンケートをとってみると、「眠い」「疲れている」という答えが多く、驚かされます。姿勢も悪いですね。「楽だから」と言って背すじを丸くしていますし、じっと立っていることも座っていることも難しいようです。
増田 以前、ジベタリアンという言葉をよく聞きましたが、当時は「立っていられない」「足の力が弱い」と危惧されたものです。現在は、さらに上半身の力も衰えているかもしれないですね。
森丘 「楽だから」というのもあるでしょうが、「自分は疲れている」とアピールしているようにも感じられます。ジベタリアンにしても、クネクネしているにしても、無意識にせよ、何らかのメッセージを周囲に発しているのかもしれません。
小松 いまの子どもたちは特に腹筋が弱いのかな、と感じます。たとえば運動会の練習で、寝た姿勢から起き上がってウェーブをするというものがあったのですが、起き上がれない子どもが多くて驚きました。
森丘 そのような動作を経験したことがないというのも少なからずあるように感じます。
竹中 確かに、やったことがない動きが多いようです。生活の中での遊びにしてもお手伝いにしても、いまの子どもは動きとしての経験が不足しているようです。ですから様々な場面で、できない動作が多いのは当然かもしれません。
森丘 スポーツの現場でも、たとえば小さい頃からサッカーしかやっていない子はボールキックは上手なのですが、ボール投げをやらせてみると上手に投げられないということがあります。いろいろな遊びを通して自然に身につけることができていた動作ですが、一つの種目に特化するあまり、積極的にスポーツをしている子どもでさえも動きの発達に偏りが見られるようです。
増田 基礎的な動きは外遊びを通して身につけられるものだと思いますが、子どもたちはそれができていないのでしょうね。大学で実技を教えたことがありますが、学生の中にスキップができない男の子が多くて驚きました。とてもおかしなステップを踏むので、「遊んでいない証拠だな」と感じたものです。私自身、「スキップってどこで習ったんだっけ?」と振り返ってみたのですが、特に習ったというわけではなく、自然に身についたものです。
水村 子どもたちは放課後に遊ぶ約束をして、帰宅してから約束したところに集まって遊ぶわけですが、そこに約束をしていない子が来ると一緒に遊ばないのです。逆に言えば、約束をしていない子は輪に入っていけない。そのことが以前から気になっています。アポなしの遊びはだめなのだそうです。子どもたちの“つながり”が浅くなっていることを感じています。では、どのような遊びをしているのかと見てみると、ゲームをしているんですね。一緒に遊ぶといっても、向き合っているのはテレビ画面であって、友だちはそこにいるのですが、ゲームと遊んでいるようなものです。
森丘 アポなしが敬遠されるのは、遊びの内容が室内ゲーム中心だからでしょうか。予定していた人数よりも多く集まると逆に困るのかもしれません。
竹中 以前実施した調査で、「友だちと予定が合わないから遊ばない」という意見が目につきました。スケジューリングというのは重要なポイントです。また、勝ち負けのあるスポーツでは遊びたがらない傾向も見られました。もっとゲーム感覚で楽しめるレクリエーション的な工夫をしないと、からだを動かして遊ぶのは難しいのかもしれません。
森丘 どちらが勝つかわからないというゲーム性に「遊び」のおもしろさがあります。起源をたどれば、スポーツも遊びの一種です。力関係が均等になるように自分たちで調整して、どちらが勝つかわからない状態にして楽しむという遊び方もできるはずですが、「スポーツは勝てばいい」という風潮があるためか、上手に遊ぶことができない。どちらかというとスポーツが苦手な子は、それを見て「面白くないな」と、さらにスポーツから遠ざかってしまっている側面もあると思います。
<“きっかけ”をどのようにつくるか>
増田 よくマラソンのイベントにゲストランナーとして参加しますが、親子マラソンを開催しているところが多くあります。親子で一緒に参加するのはいいですね。親には生活習慣病予防となりますし、子どもも元気に走れば心身ともにたくましくなります。黙々と走るのではなく、親子でふれあいながらにぎやかなイベントを楽しむのは、きっかけとしていいものだなと思います。地域の行事に家族で参加するのは一つの方法ではないでしょうか。
竹中 子どもだけに何かをさせるために親が連れて行くとなると、親にとってはそのことがハードルになってしまうかもしれませんね。スポーツ少年団も、親への負担が大きく、なかなか子どもを参加させられない面があるようです。
森丘 スポーツ少年団に限らず、自分の子どもの面倒は親が見るべきという風潮があります。もちろんそれはそうなのですが、指導している人たちも保護者に応分の負担を求めて当然という意識がより強くなってきており、本来的な意味でのボランティアから遠ざかっているという実態もあります。
水村 当番などの義務が多く、特に共働きの世帯などではどうしても義務をこなせる状態にないので、子どもは入りたくても入れないという話は多いようですね。
竹中 子どもに何かすごいことをやらせようと思うと親の負担も大きくなってしまいますよね。もっと簡単なこと、たとえば公園で遊ぶとか、野球選手を目指すのではなく親子でただキャッチボールをして遊ぶとか、そんな働きかけでも子どもはずいぶん変わると思います。私たちは、どのように親が働きかければ子どもが活動的になるかという研究もしています。まず公園などに「子どもを連れて行く」。次に「一緒に行なう」。3つ目は「褒める」。4つ目は「モデルになる」。こういった働きかけの種類があると思うのです。親からのわずかな働きかけが大切です。
森丘 私の子どもが通う保育園の運動会で、親の綱引き競技がありました。年長クラス、つまり保育園生活最後の運動会だったので「優勝しないとダメでしょ」という雰囲気になりました。そこで練習会を企画して、いざ公園に集合してみたら、なんと親子総勢60人くらい集まりました。みんなで練習して、そのうち子どもたちも一緒にやって、夜は大宴会。とても楽しかったのですが、後になって「これが組織化されていったら、ここまで多くの人たちが集まるだろうか」と考えました。こういう活動をきっかけに、組織化されたクラブのようなものに発展していけばいいという考え方もあると思うのですが、そうなると逆に参加しにくくなる人もでてきてしまうのではと感じます。
竹中 ゆるやかな集まりでないと、つまり組織が固定化されてしまうと、参加しにくいものになってしまうのでしょうね。
森丘 先ほど子どもを公園に連れて行くというお話がありましたが、一組の親子でやれる遊びというのはかなり限定されます。また私の体験談になりますが、保育園の保護者仲間に「いまから公園に子どもを連れて行きます。一緒に遊びませんか?」とメールします。するとたちまち複数の親子がやってきて、子どもも5〜6人集まったりします。そうなると子どもは自分たちで勝手に遊びますから、親は時々交じったりしますが、眺めていればいい。難しいことではなく、親同士で声をかけ合うだけで、子どもたちはバリエーション豊かに遊ぶことができます。
<大人はどのように働きかけるべきか>
水村 子どもを取り巻く環境が変わり、子どもたちの価値観も変わってきているのかなと考えさせられます。親や学校からのはたらきかけなど、子どもがからだを動かすように場を設定する工夫が必要になっていると感じます。しかし、近ごろの教員は書類作業などがとても増え、忙しさが非常に増しています。放課後に子どもたちと一緒に遊ぶ時間を確保できない状態です。
増田 子どもの価値観が変わったとお聞きして思うのですが、外遊びをする子が少なくなった現状の中で、からだを動かすことの楽しさを心から味わっている子どもがどれだけいるのでしょうか。楽しむというより先に、結果を気にする傾向にあるように思います。指導者は牧場主のようなタイプが理想ですね。子どもたちは解き放たれ、のびのびとからだを動かしながら、大切なものを育んでいくでしょう。
竹中 大人が与えて子どもが楽しむというものは、その時だけで終わってしまいますからね。牧場主として、子どもがケガなどをしないようにそれとなく見守っている。そして子どもたちが本当に楽しいんだということを自分たち自身で見つけられれば、状況は変わっていきそうです。
増田 牧場主という表現を使いましたが、なぜそのような考えを持つようになったかというと、駅伝などの上位チームの監督はそのような人たちなのです。深い信頼関係があるからなのでしょうが、管理するのではなく、選手たちを放している。でも、どこかでしっかりと見ている。そのような環境で選手たちは一人ひとり個性を伸ばしながら、いざ集まると素晴らしい結果を出すのです。
水村 埼玉県所沢市のいくつかの学校では、校庭や体育館など学校の施設で、放課後に子どもたちが学習や運動をできるシステムをつくっています。登録制で、年間500円の保険料をいただくだけで、市が委託する地域の方がローテーションで子どもたちを見守っています。何かの指導をするわけではありません。
竹中 そのように地域の人にそれとなく見守られている環境で、からだを動かして友だちと遊ぶというのが、子どものころの私たちに馴染みのあるものです。いまは、たとえば幼稚園が指導者を招いて体操クラブを開く、親もそれに子どもを参加させて安心している、という状況になっていますね。森丘さんの運動会の話ですが、そのような過程を経験しながら集団の力を培っていく機会が失われてきていることを感じます。子どもにもショートカットで結果を求めるので、そこに過程がなく、集団としての力がつきにくい。そのようなことを感じます。
増田 親も先生も焦りすぎているのかもしれませんね。効率を求めすぎるあまり、無駄な時間と思われるものに本当はすごく意味があるのに、それを飛び越えてしまっている現状が見えてくるようです。
竹中 飛び越えてショートカットして、そのときはいいのかもしれませんが、後でつまづくことになる。時間をかけたほうが後々のためになるということがあると思うのですが。
森丘 先ほどの駅伝の指導者に限らず、よい指導者というのは「選手なりにいろいろ考えてやっているのだから少し様子を見よう」と待てる指導者。反対に、気になるとすぐに手を出してしまう指導者もいます。そのほうが、短期的にはよい効果が期待できるかもしれませんが、長い目で見れば必ずしもよい選択とはいえないこともあります。ある著名なスポーツ指導者が、選手が「教わっている」という感覚にならないように教えるのがよい指導者だと話していました。子どもに対しても同様で、いかに「自分が好きで楽しんでいるんだ」と思わせるか。そこに保護者や指導者の働きかけがあって、子どもに「親に言われたから」「指導者に言われたから」と思わせないことが大切だと考えます。
小松 保健室で子どもの相談を受けていて思うのですが、その子が「こうしよう」と自分から思うと、そのように動きます。私たちが「こうしたら、ああしたら」と言っても、子どもは動かないんですよね。
<からだを動かす役割〜社会性を高め、こころを癒す〜>
竹中 スクールカウンセラーに聞いた話ですが、いまの子どもは他人を傷つけることには鈍感だけど、自分が傷つくことにはとても敏感なのだそうです。肥満や不定愁訴などの面だけでなく、こういった社会性という面でも、からだを動かして一緒に遊ぶことの意味合いがあるのではないかと考えています。
増田 スポーツでは、自分が勝ったということは負けた人がいるということなので、負けた人の立場を考える機会があります。チーム・スポーツならば、自分だけでなくみんなの力で成し遂げるものなのだと、理屈でなく、からだで感じることができます。抱き合って喜び合ったり、悔しがったりするものでもあるので、心を育むうえでスポーツは素晴らしい働きをしますね。
小松 理由がわからずにイライラしている子どもたちが多いですね。でも、長い休み時間に外で遊ぶと、「スッキリした!」と笑顔を見せます。
森丘『アクティブ・チャイルド60min.』のトピックでも、窓ガラスが毎週のように割れるほど荒れていた小学校が、休み時間を長くして全教員が外に出て子どもたちと一緒にからだを動かすようにしたところ、そういった行為が収まったというストレス・マネジメントの事例を紹介しています。
増田 内側にたまっているエネルギーを発散させてあげないと、悪いほうに進んでしまうかもしれませんものね。
竹中 ただ、勝利至上主義的なスポーツでは逆にストレスが増してしまいますし、からだを動かすことを罰にしてしまうと、子どもたちにネがティブな印象を与えてしまうので注意が必要です。
<子どもが自発的に動くために何が必要か>
森丘 肝になるのは「遊び」「楽しい」でしょうね。楽しみながらやっていくうちに、実は一生懸命に全力でやることが、さらに楽しさを得るための道すじだと気づくのではないでしょうか。
増田 楽しいプログラムが重要だと思います。子どもたちに「提供されている」と思わせないような遊びプログラムが。
竹中 「お金を儲けるため」「成功するため」など、とかく目的志向ばかりが目につきますが、子どもにとって「やってること自体が楽しい」というものでないと、喜びは感じられませんよね。内容でも工夫が必要ですね。競争でなく、ゲーム感覚でやれるようなもの。
水村 私は以前、「100回褒めるぞ」と心に誓って体育の授業に臨んだことがあります。とても大変でしたが、子どもたちは最後までひたむきに取り組んでいました。あまり体育が得意でない子も積極的にやるようになって、やはり褒められるのは子どもにとって大きな励みなんだなと感じました。
増田 水村さんは小出義雄さんのようですね(笑)。小出さんも練習中、選手達に「いいね!」「最高!」「完璧!」と繰り返し声をかけています。特に子どもは純粋なので、褒められると素直に喜び、のびやかにからだを動かせるのでしょうね。
<生活活動の実践を楽しむ>
竹中 『アクティブ・チャイルド60min.』では、生活活動も推奨しています。エレべーターやエスカレーターではなく階段を使うほうがカッコイイよ、ですとか、電車やバスでは座っていないで、必要な人に席を譲るほうがカッコイイよ、とメッセージを出しています。自分さえよければいいというのではなく、利他的になることも子どもたちに考えてもらえればと思います。
増田 「カッコイイ」という表現を使っているのがいいですね。恩着せがましくないので、気持ちが自然に動くと思います。健康のことにとどまらず、マナーやモラルについても考えられた本です。私は小学校まで2.5kmほど歩いて通学していました。そして、よく忘れ物をして、取りに帰ったものです。当時の先生には、「脚が強くなったのは、忘れ物をしたのがよかった」と言われます。日常の登下校、移動でも体力はつくのです。子どもは元来、からだを動かすことが好きですから、生活の中で汗をかく習慣を楽しんでほしいと思います。
森丘 忙しい朝の時間帯に子どもを保育園に送るとなると、どうしてもクルマや自転車に頼りたくなります。でも、風雨の日などを除いて、なるべく歩いて行くようにしています。途中にマンホールがあると「ジャンプしてみようか」と跳ばせてみたり、特に時間がないときは「速歩きで行こうよ。どれくらい早く行けるかな」と時間を計ったりして「うわ〜新記録だ!」とか言って盛り上げています。
小松 「子育てママ」を特集している雑誌がありました。そのような情報の中で、子どもとからだを動かしている理想的な保護者像がとりあげられて、多くの人が憧れるようになればいいと思います。いずれにしても、この本で紹介されているような子どもの実態や、からだを動かさないことの問題点を知るようになれば、多くの保護者が森丘さんのような働きかけをしていくと思います。
竹中 いまの子どもは将来の大人です。からだを動かす機会を失う一方で、なんらかの仕掛けを入れないことには、健康や社会性など多くの観点での問題が深刻化します。からだを動かすことを厭わない子どもを育てるために、たくさんの情報を集めて、「動機づける」だけでなく、その具体的な中身についても、引き続き多くの人たちと一緒に考えていければと思います。
(2010年4月 アクティブ・チャイルド座談会.pdf 直より抜粋)

繰り返しになりますが、明後日から2月にかけて全国各地で「アクティブ・チャイルド・プログラム講習会」が開催されます。
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奮ってご参加下さい!

東京オリンピック記念体力測定

moriyasu11232012-11-08

標記タイトルは、1964年オリンピック東京大会の日本代表選手について、4年に一度のオリンピックイヤー毎にライフスタイルなどに関するアンケート、体力測定およびメディカルチェックを実施する調査研究の名前である。
今年度で12回目を迎えるこの測定は、来る11月12日から22日までの日程で実施される予定である。
職場の上司(室長)による「Sports Japan」への寄稿を再録する。

「聖火は太陽へ帰った。人類は4年ごとに夢を見る。この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか」。名作の誉れ高い市川崑監督の映画「東京オリンピック」において、エンディングの字幕に流れた印象深い言葉である。そしてこの夏、舞台はロンドンに移り、私たちは再び夢の続きに浸る。
1964年の東京オリンピックからおよそ半世紀、懐かしいオリンピアンたちはお元気であろうか? 平均年齢は、はや七十歳をこえた。果たして、若い頃に鍛え培ってきた健康、体力は今も健在だろうか。是非、そう願いたい。メダル争いに一喜一憂した私たちも、一方でそうしたスポーツの持つ別の可能性に夢を抱いているのかも知れない。今回は、そうした趣旨で始まった研究を紹介したい。
東京オリンピック当時IOC会長であったブランデージはこんなことを言っている。「クーベルタン男爵がオリンピック競技復興の運動を始めた時、主たる目標の一つが、新記録や勝利を求めるばかりでなく、すべての国の体育振興にあったことを忘れてはならない。すなわち、オリンピック競技は、競技それ自体に終局の目的があるのではなく、すべての青少年のために体育・スポーツを推進する手段として考えられたものである。したがって、その目的は大衆が参加することであって、単に少数のチャンピオンを作り出すことではない」。ひるがえって東京オリンピック当時、ブランデージ会長の言葉とは裏腹にオリンピックも政治的利害、商業主義、勝利至上主義、薬物問題などさまざまな課題を抱える状況に至っていた。そうした時代の流れにあって、オリンピック行事の一環として開かれた国際スポーツ科学会議が取り上げたシンポジウムのテーマが「オリンピック・ムーブメントとその体育に及ぼす影響について」であった。オリンピックを見直し、再生をはかろうとする時代の意図が読み取れよう。
こうしたオリンピックムーブメントの理念、そしてその葛藤を背景として、スポーツ医・科学の分野においても東京オリンピックを契機にある取組が始まろうとしていた。国際スポーツ医学連盟(FIMS)がIOCNOC(各国オリンピック委員会)に呼びかけ、各国の東京オリンピック参加選手の健康、体力を4年に一度、生涯にわたり追跡調査する研究を提案したのである。青少年期に高めた健康・体力が生涯の財産として引き継がれるか否か、いわばその持ち越し効果を検証しようとする研究である。チャンピオンスポーツと生涯スポーツの融合を探る研究と言い換えてもよい。さっそく、各国の賛同が得られ、賛辞のメッセージが寄せられた。オリンピック医学アーカイブス(OMA)と名付けられ、開催国の日本を始め二十三カ国が参加する国際的な一大プロジェクト研究となる。各選手は自国であらかじめ所定の測定を受け測定データを持ち寄った。測定データはスイス・ローザンヌアーカイブ(保管)され解析されることになる。写真(※ブログ冒頭写真)は、東京オリンピック開催国の日本が所管した第1回の報告書である。
しかし残念なことに、次のメキシコオリンピックの時に参加国は激減し、次いでミュンヘンオリンピックであっさり立ち消えになった。国の枠を超えて夢を実現することは、たやすいことではないようだ。こうしたなかで、オリンピック開催国の我が国だけはこの研究の意義を尊重し、何とか続ける努力をしたのである。当時のスポーツ科学委員会の東俊郎委員長、そしてその意志を受け継いだ黒田善雄委員長の決意であった。以来、四年に一度の追跡研究を今日まで続けている。それにしても長期にわたる追跡研究であり継続すること自体に苦労はつきものであった。そうしたなかで、十回目を迎えた年から開設間もない国立スポーツ科学センター(JISS)の協力が得られ、大きな支えとなった。以後、JISSとの共同研究として継続し、ロンドンオリンピックの今回は数えて十二回目の測定を今秋に予定している。また懐かしい方々にお会いできるのが楽しみである。
伊藤静夫『東京オリンピック記念体力測定(連載・スポ研Now)』Sport Japan(Vol.4)より抜粋)

先日、TOKYO MXで放映された「西部邁ゼミナール」に、自民党伊吹文明氏が出演していた。
安倍内閣における文部科学大臣時代、全国の児童生徒とその保護者に「文部科学大臣からのお願い」という緊急アピールを配布したことが、結果的にいじめ(自殺)に棹さしたとも言われており、個人的にあまりよい印象をもっていない政治家であったが、西部邁氏をして「日本の良心」と言わしめる政治観には相応の重厚感が漂っていた。
伊吹氏は、政治家に必要なこととして「信念」「哲学」および「説得力」を挙げ、西部氏がそれぞれについて補足する。
まっとうな「信念」は、究極的には国家の伝統に支えられるものであり、それは古典的(Classic)な歴史から学びつつ、人々が持つべき良知・良識へと昇華させることによって生じるものであること。
まっとうな「哲学」は、批評精神に支えられるものであり、とりわけ現代社会においては、科学・技術がどのような「前提」から出発しているかを理解し、クールかつリアルにそれらを批評する目をもつことによって生じるものであること。
まっとうな「説得力」は、知識から実践に至る総合的な態度に支えられており、状況の全体を総合的に捉える力を養うことによって生じるものであること。
「クラッシック(Classic)」という言葉は、「階級(Class)」の意味を包含しており、そこには古い物は上等であるという意味が付与されているという。
現代社会は、古典的世界からずれることが「進歩」であるという壮大な勘違いをしているが、数々の風雪に耐えて長期間生き残っている歴史や古典の本質を踏まえつつ、状況的危機を批評精神豊かに切り開いていくことが肝要であるということで意見の一致を見ていた。

東京オリンピックは決して“兵どもの夢”ではなかった。日本人とアジアの人々に夢を与えたビッグイベントだった。問題はこれを受け継いでいる人たちにあるのだ。このような状況を放置していながら、再び東京にオリンピックを誘致しようとしている輩なのである。(…)
2016年のオリンピックを東京に誘致しようという人たちには、要するに“温故知新の精神”が欠如しているのだと思う。そして謙虚さも欠けているのだ。東京オリンピックを誘致し、成功させた先人に想いを寄せることなくオリンピックを再び東京に誘致しても、長い目でみると“兵どもが夢の跡”を残すだけになると私は思う。私は東京オリンピックの誘致に反対しないが、こういうところを改めない限り賛成できない。温故知新も謙虚さも、日本人の美徳であった筈だ。
(2008年8月25日 白川勝彦氏「永田町徒然草(兵どもが夢の跡!?)」より抜粋)

「温故知新の精神」と「謙虚さ」の欠如。
大変手厳しいが正鵠を得た指摘であると思われる。
3年前の拙稿の繰り返しになるが、ある営みが「遺産(レガシー)」になり得るかどうかは、その時点で判断することができない。
その営みの「遺産的価値」をリアルタイムに査定できるとすれば、「遺産」という言葉の意味からして語義矛盾を生じる。
価値ある「遺産」となり得るか否かは、後世の「歴史的文脈」によって「事後的に」判断されるものなのである。

スポーツと芸術の社会学

スポーツと芸術の社会学

まず人生があって、人生の物語があるのではない。私たちは、自分の人生をも、他人の人生をも、物語として理解し、構成し、意味づけ、自分自身と他者たちとにその物語を語る。あるいは語りながら理解し、構成し、意味づけていく(…)そのようにして構築され語られる物語こそが私たちの人生にほかならない。この意味で、私たちの人生は一種のディスコースであり、ディスコースとしての内的および社会的なコミュニケーションの過程を往来し、そのなかで確認され、あるいは変容され、あるいは再構成されていくのである。
(by井上俊氏)

我が国で初めて開催されたオリンピックに国を代表して臨んだ先達が刻んできた「時間(プロセス)」を、後世が参照できるような有形、無形のディスコースとして遺していく責任が我々にはある。

日常という名の奇跡

moriyasu11232012-10-16

とある出版物改訂のために元原稿ファイルを探しているさなか、長男(小三)が保育園を卒園する直前の「園だより」にと依頼されて寄稿したテキストに行きあたった。
史上初の「1ヶ月更新ゼロ」を成し遂げる可能性のあった今月を乗り切るため、これを援用することとしたい。

昨年12月、妻とともに長男(年長クラス)の保育に参加。
園庭に出ると、いつものように鬼ごっこが始まる(もちろんオニは私)。嬉々として逃げ回る子ども達を、手当たり次第に追いかける。
ごっこに飽きてきた子ども達は、オニにボールをぶつけ始める(当然ぶつけ返す)。
外でめいっぱい遊んだ後、室内でのカードゲームやランチに興じ、担任の先生との面談を終えて、楽しいひとときに後ろ髪を引かれつつ(洋服を引っ張られつつ)帰途につく。
昔に比べて「(仕事も含めた)やりたいこと」が増えている今時の親は、子どもの「面倒」をみてくれるところを探さねばならない。かくいう我が家も、おばあちゃん(義母)と保育園に足を向けては寝られない。
「面倒」という言葉には「手間のかかること、解決が容易でないこと…」、転じて「世話」という意味がある。園では、様々な趣向を凝らした<子育ち>の場を提供してくれているが、多くの手間がかかり、正解も見つからない「子どもの世話」、すなわち<子育て>の最終責任は言うまでもなく家庭(親)にある。
「子は親(大人)の背中を見て育つ」と言われるが、私たちは「鏡」なくして自分の背中を見ることができない。そして「子は親(大人)の鏡」、すなわち私たち自身や社会を映し出す「鏡」とは他ならぬ「子ども達」である。
そのことを肝に銘じながら、次年度の長女(年少クラス)の保育参加を楽しみに待ちたい。
(2010年3月15日 拙稿「我が子の保育に参加して」より)

あれから2年と半年あまりが過ぎ去ったが、今夏には長女(年長)の保育参加も無事に終了し、新年度からは長男と一緒の登校班での通学が始まる。
あと半年足らずで終了してしまう娘の保育園送りは父親の役目である。
一番最初に家を出る長男を叱咤激励(ときに叱責)しながら、長女の着替えやタオルなどを準備しつつ自身の身支度を整える。
職場に向かう妻に手を振る娘の手を取り、歌をうたったり、マンホールをジャンプしたり、競走したり、毎朝顔を合わせる(ほとんど寝ている)番犬に挨拶したりしながら、園までの10分足らずの親子水入らずを楽しむのが「日課(日常)」である。
この極めてありきたりな「日常」が、実は数多くの偶然が重なり合うことによって成り立っている「奇跡」でもあることを、私たちは普段ほとんど意識していない。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

じっさい、完全な親なんか、人間の中には存在しないんだ。完全な親であることができるのは、動物の親だけだ。なぜなら、彼らの目的は生命を全うすることだけだからだ。でも、人間はそうじゃない。生命としての人生をどんなふうに生きるのか、それを考えてしまうからだ。人生の真実とは何なのか、死ぬまで人は考えているのだから、その限り全ての人間は不完全だ。(…)
動物なら生きるために家族で助け合うという理由が明確だけど、人間が家族の中に生まれてくる理由は、それだけではないんだ。家族というのは最初の社会、他人と付き合うということを学ぶ最初の場所だ。家族の外の社会には、もっといろんな他人がいる。そういう他人とどう付き合ってゆくのかを予習するための場所なんだ。
ところで、不思議なのは、世の中にはいろんな他人がいるのに、なぜ、よりによって、君は君の親のところに生まれてきたのかということなんだ。理由がないという意味では、これはまったくの偶然だ。でも、偶然なのにそうだったという意味では、これは確かに縁なんだ。他人と他人の「親子の縁」、人生の意味も、ここから考えてゆくと、意外と面白いことになることに気がつくはずだ。
(by池田晶子氏)

全くの偶然によってこの世に生まれ出てきた「他人」同士が、「己の世界のなかにある他=他己」同士として「親子」という関係を結んでいく。
この偶然でありながらも必然(宿命)を思わせる「親子の縁(えにし)」は、「自己」を中心とする二つの親子関係を改めて意識させるだけでなく、人生の意味を再考するきっかけにもなると思われるのである。

学ぶ・考える・やってみる(その2)

moriyasu11232012-09-12

前回(その1)からのつづき…

◇レースの奥深さ、実感
「本当に私で大丈夫なんですか?」。最初は冗談だ、と小平奈緒は思った。バンクーバー五輪を1年半後に控えた、2008年夏の日本代表カルガリー合宿。日本スケート連盟鈴木恵一強化部長=当時=や、羽田雅樹コーチ(ダイチ監督)から「小平、パシュートはどうだ」と声をかけられた時のことだ。
女子団体追い抜き(チームパシュート)は、2チームがコースの対角線上から同時にスタートし、3人が交互に先頭を代わりながら6周し、最後尾の選手が先にゴールした方が勝つチーム対抗戦。連盟ではバンクーバー五輪のメダル有望種目と位置づけ、カギを握る選手をさがしていた。
「日本が勝つには、スピードしかない、と思っていた」と鈴木さんは言う。長距離選手の層が厚いカナダやドイツなどは長距離専門選手を3人集め、後半にラップを上げていけるが、層の薄い日本は難しい。そこでスピードで前半をリードし、逃げ切る戦略だった。
鈴木さんらが目をつけたのが、小平だった。五百メートルの日本記録保持者ながら、持久力もけっこうある。カルガリー合宿で、小平が長距離選手と一緒の練習について行くのを見て、鈴木さんは「いける」と予感したそうだ。そして09年シーズン最初の全日本距離別選手権の千五百メートルに小平が勝ったことで、ダイチの田畑真紀穂積雅子を加えた3人でチームを組むことが、ほぼ確定した。
穂積、田畑と先頭を交代し、3周目に小平が先頭に立ったときに加速して、リードを広げる。大柄な小平は、後ろの2人の風よけになり、疲労も軽減できるメリットもあった。迎えたバンクーバー五輪本番、1回戦の韓国、準決勝のポーランドとのレースでは、先行逃げ切りパターンがはまり勝利。決勝のドイツ戦でもラスト半周までリード。最後は100分の2秒差で逆転されたが、みごとに銀メダルを獲得した。
五輪前に周囲が一番心配したのは、1回戦を勝ち上がると、準決勝、決勝と1時間半を置いて2レースをしなければならないことだった。小平のスタミナが持つか。「でもワールドカップでは五百メートルで最大限に力を出した50分後に千五百メートル、なんてこと、何度もあった。それに比べたら、すごく楽でした」。言葉通り、滑り切った。(…)
決勝での惜敗は悔しかったが「おかげで、パシュートの面白さも難しさも知った」と満足している。高速リンクか低速リンクか、あるいは、相手のメンバー構成次第でレースプランを変えてもいい、と奥深さを感じた。「個人種目より心理戦の要素が強い。そういう戦略を、考えるのが好きなんです」。団体追い抜きは、小平の引き出しをまた一つ増やした。
(2010年4月30日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/4」 より抜粋)

五輪という舞台での「惜敗(銀メダル)」から、パシュート独特の戦略を考えることの「面白さ」と「難しさ」を学んだという小平選手。
仮に金メダルを獲得していたら、果たしてそれと同質の「面白さ」と「難しさ」を感じることができただろうか。
もちろん選手としては、できるだけ「失敗(≒敗北)」を避けたいと思うのが人情であるが、「失敗(≒敗北)」を免れた代償に「成功(パフォーマンス向上)のもと」をつかむ機会を逸したとなれば、これも算盤には合わない。

もし全幅の信頼を置ける、自分の選択よりも常に正しい選択をする人間が指示をしてくれていたら、これは正しい失敗の機会を奪ってしまうことになります。痛い目をみない失敗は、そのほとんどが忘れ去られてしまいます。あまりにこの期間が長くなってしまうと、様々な失敗を、自分が対応できた類と考えず、チームのコーチの、ゆくゆくは組織の問題だという領域に持ち込みがちです。なぜなら自分で選択している感覚が薄れるからです。
(2008年12月9日 為末大オフィシャルサイト「コーチング論」より抜粋)

テスト(試験)の目的は「100点をとる」ことではなく「返却されたあとで100点にする(次に間違えないようにする)」ことにある。
「試験」も「試合」も文字通り「試すこと」が目的であり、結果だけに囚われてその後のパフォーマンス向上に繋がらなければあまり意味がない。
4年に1度の五輪は、アスリートにとって最高峰の大会であり、それまでのトレーニング成果を遺憾なく発揮すべき「本番」であることには違いないが、五輪という大舞台で自身の力を発揮するために何が必要なのかについて学ぶことができる「唯一の場」であることもまた事実である。

◇「ソチへ」強まる思い
バンクーバー五輪後、小平奈緒はいったん帰国した後、すぐにワールドカップ(W杯)に出場するため出国した。長野に戻ってきたのは3月16日。それから3日間、茅野市の実家に戻るのを少し遅らせ、早起きして長野市の屋内リンク・エムウェーブに通った。「まだ営業していたので。だれもいなくて貸し切りでした」
五輪の疲労からか、W杯では滑りが崩れていた。崩れたままでシーズンを終えるのは不本意。修正してオフを迎えたかった。
五輪後のシーズンをゆっくり休養する選手も多いが、小平は逆だ。帰国後のあいさつ回りやイベント参加が一段落した後、4月15日からトレーニングを再開する予定だったのに、1日には「がまんできなくて、始めちゃいました」と笑う。
小平の練習好きは、昔からだ。中学、高校時代に教えた新谷純夫さんは「練習に耐える体力は男子並みだった。体調が悪くても練習を人より多くこなせるので、滑りがおかしくなったほど」と言い、信州大時代から継続して指導する結城匡啓監督も「大学1年夏の菅平合宿で、(練習のし過ぎで)呼吸困難で倒れたことがある。こっちでセーブしないといけない、と気がついた」と語る。
五輪後に会ったあこがれの先輩の言葉も、やる気に拍車をかけた。3月末、男子五百メートルのメダリスト、長島圭一郎日本電産サンキョー)、加藤条治(同)とともに、長野五輪で金メダルを取った清水宏保と食事をする機会があった。清水は「長野の翌シーズン、休もうなんて思わなかった。五輪では最強を求め、五輪後の3年は最速を求めないとダメだと思う」とアドバイスした。
最強と最速を追求する環境は整っている。大学を卒業した昨年、はじめてスケートに専念できた。松本市にある相沢病院のサポートを受けられたからだ。就職にあたって小平が唯一希望したのは、信州大の結城監督の指導を受け続けられること。だが不況のためか、なかなか見つからなかった。4月に入っても決まらず、小平もあきらめかけたころ、日本スケート連盟が提携するスポーツドクターで、相沢病院のスポーツ障害予防治療センターに勤務する村上成道医師が、相沢孝夫院長に引き合わせてくれた。相沢病院は、小平が08年に左足を痛めたとき、リハビリで世話になったところでもある。相沢院長は「地元で頑張っている選手を応援するのが、地域の病院の役目」と快諾し、昨年4月16日付で採用が決まった。(…)
結城監督は「内発的動機付けのレベルがとてつもなく高いこと」が小平の最大の長所と見ている。心理学で、報酬や名誉といった外からの刺激によってモチベーションを上げるのが外発的動機付け。いわば目の前にリンゴがぶら下がっている状態だ。リンゴがなくても走りたい、と思う心の動きが、内発的動機付けだ。
うまくなりたい、速くなりたい、強くなりたい。心の中からわき上がる思いが、いま小平をトレーニングに向かわせる。その先に、14年ソチ五輪が待っている。
(2010年5月1日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/5止」 より抜粋)

スポーツに限らず、その道の熟練者になるためには「10年以上継続して1万時間を超える科学的・合理的な質の高いトレーニング」が必要であるといわれている。
そのためには、まず人間に行動を起こさせ、その行動を持続しながら一定の方向に向かわせることが必須となる。
すなわち、最大のスポーツ適性は「高い動機づけ」ということができるが、この動機づけは大きく二つに分けられている。
一つは、外的な「報酬(目標)」により行動意欲が引き出される「外発的動機づけ」であり、もう一つは、行動それ自体が「報酬(目標)」となり意欲を引き出すよう働く「内発的動機づけ」と呼ばれている。
心理学的な研究結果を引くまでもなく、人は多くの欲望や関心が混ざり合って「動機づけ」られており、「外発・内発」という二分法でクリアカットできるほど事は単純ではない。
市川伸一氏は、「学習の功利性」と「学習内容の重要性」という二軸をベースに、学習目的と内容の関連性が高い「内容関与的動機(充実・訓練・実用)」と、関連性が低い「内容分離的動機(関係・自尊・報酬)」を二次元的に位置づけるという「学習動機の2要因モデル」を提案している。

本研究において,内容分離的動機(関係志向および報酬志向)は内容関与的動機と関連を持つことが示されており,周囲の者につられて運動を行ったり(関係志向),何らかのご褒美を目当てに運動を行っている(報酬志向)者でも,それと同時に運動内容の重要性を感じていれば(内容関与的に動機づけられていれば),行動変容技法や運動の実践につながる可能性が示唆されている.市川(2001)も指摘しているように,両者の関係は内容関与的動機が好ましく,内容分離的動機は好ましくないといった二項対立的なものではない.(…)仮に一方の動機が顕著に見られたとしても,それは一方の動機が他方の動機づけに質的に変化しているのではなく,その時々の文脈により一方の動機に量的に偏っているに過ぎないと考える方が妥当であろう.つまり,運動についても内容関与的にも内容分離的にも動機づけられており,尚且つ内容関与的動機に偏っている際に,運動への取り組み方を積極的に工夫しようとするのではないかと推察する.
(上地広昭, 森丘保典, 尾山健太『青少年期における運動志向性と行動変容技法の関係』体育学研究57巻2号より抜粋)

そもそも外発的動機づけの歴史なしに生じる内発的動機づけが(食欲などの生得的な欲求を除いて)存在するのかという問題や、内発的動機づけは「外部からの強化が目に見えないのに行動が維持されている状態」につけたラベルに過ぎず「その人間の中で何かが起きている」という証拠を明示することはできないなどの議論もある。
しかし究極的には、新しいことや困難なことに対して、自ら工夫し、また全力で挑みながら、自身のパフォーマンスを高めていく「楽しさ」それ自体を報酬として動機づけられていくことこそが、子どもや愛好家のみならず、トップアスリート育成にとっても極めて重要なテーマであることは言を俟たない。
ソチ五輪での金メダル獲得」というリアルな目標をもちながら、「うまくなりたい、速くなりたい、強くなりたい」という思いに強く動機づけられている小平選手は、まさに「内容関与的にも内容分離的にも動機づけられており,内容関与的動機に偏っている際に,運動への取り組み方を積極的に工夫しようとする(by上地広昭氏)」選手なのである。

挫折にしろ、技術的な伸び止まりにしろ、燃え尽き症候群にしろ、とにかく早い段階でいろんな事を経験し、免疫をつけていく。最後はグラウンドに一人で立つわけですから、こういったフィロソフィーがどれだけ成熟しているかが重要ではないでしょうか。(…)
結局いったい何が私を支えてきたんだということを(…)考えてきましたが、どうも「技術」の世界ではないのかなと思いました。革新的な技術、いろんな人の真似をしながらこれまで競技を続けてきましたが、流行はみんな去ってしまいました。唯一のこるのはメッキが全部はがれたコアの部分だけです。(…)重要なのはこのコアに向かう動機。これが純粋で濁りがない選手ほど生き残っています。
為末大「400mハードルのトレーニング戦略」スプリント研究 第18巻より抜粋)

人間的な「成熟」の指標は、様々な仕方でセットされ、様々な機会を通じて吟味されなければならない。
「動機づけ」についていえば、「内発的 or 外発的」よりもむしろその時間的な文脈にこそ本質があるといえるのではないか。

選手というものは、自得しなければならない。その自得という行為に他人が関わるところにコーチングの難しさと楽しさがある。(…)幸いにして教育学部に職を得て10年が過ぎた。教員を養成する目的学部である教育学部の教師教育には、日本のスポーツ界に有名無実のコーチ教育に資する題材が詰まっているように感じる
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

ほらね。
ここにも「難しさ」と「楽しさ(面白さ)」がでてくるでしょ。
「10年(1万時間)以上の質の高いトレーニング」とは、それさえ行えば誰もが熟練者になれるということではなく、「難しさ」と「楽しさ」に魅了されながら熟練に到達しようとする人間に共通するプロセスがそれだった、というのが因果のベクトルなのである(だから「質の高い」がついているのよ)。
ことの順逆を間違えてはならない。

勝つためのコーチングがすべてかというと、そう言い切ることも難しい。学生である選手に、教員であるコーチ(筆者)が勝つことだけを求めてコーチングするのは、哲学の欠落が招く「回路のショート」であると言える。選手としては勝てなかったとしても、学生としては負けから学ぶことも大きい。外からの結果しか見えない外野から、そのコーチングを評価することなどできまい。選手とコーチの間に共通の認識として気づかれる教育の場としてのスポーツ経験。このスポーツ経験こそが、選手であり学生である一人の人間を成長させるための積み上げになるのであり、実は強い選手を育てるために必要なコーチングに通ずると信じている。
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

「その1」冒頭の記事に「大学に行かなければ、トリノ五輪に出場し、2度目のバンクーバーでは個人種目でもメダルを取れた…」というスケート関係者のコメントがあった。
その推論の妥当性を科学的に検証するのは不可能であるが、仮に「トリノ五輪出場&バンクーバーでは個人種目でメダルを取れた」として、そのほうが「価値あるプロセス」だったとは言い切れまい。
五輪選手、メダリストと一口に言うが、その多様性に思いの至らない人間は限られた成功モデルに拘り、その拘りこそが自身の可能性の幅を狭めているということに気づかない。
彼らのようなアスリートを「異色・異端」というカテゴリーで括ろうとした瞬間に、今までの自身の常識を覆す事例との「出会い」、すなわち自身の理論を書き換える重要な「契機」を逸することとなる。
トップアスリートの発達過程を考察する際には、等質性に固執するのではなく多様性を見ていく、すなわち「違いのある類似性」に着目する必要がある。

偶然と驚きの哲学―九鬼哲学入門文選

偶然と驚きの哲学―九鬼哲学入門文選

ニイチェの『ツァラトゥストラ』のなかにこういう話があります。ツァラトゥストラがある日、大きい橋を渡っていたところが、片輪だの乞食だのがとりまいて来た。そのなかにひとりせむしがいてツァラトゥストラに向って、だいぶ大勢の人があなたの教えを信じるようになってきたが、まだ皆とは行かない。それには一つ大切なことがある。それは先ず私共のような片輪までも説きふせなくてはだめだといったのです。
それに対してツァラトゥストラは「意志が救いをもたらす」ということを教えたのです。せむしに生まれついたのは運命であるが意志がその運命から救い出すのです。「せむしに生れることを自分は欲する」という形で「意志が引き返して意志する」ということが自らを救う道であることを教えたのです。
このツァラトゥストラの教えは偶然なり運命なりにいわば活を入れる秘訣です。人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それは人生の第一歩でなければならないと私は考えるのです。
(by九鬼周造氏)

「大学の4年間がなかったら、いまの自分のスケートはありません」ときっぱりと言い切ったという小平選手。
彼女のコーチングにおいて、ご尊父から新谷氏、そして結城コーチへと引き継がれているコンセプトとは何か?
それは、「自分は今、自らの宿命が導いた、いるべき時間の、いるべき場所に、いるべき人々とともにいる」という人間の心身のパフォーマンスを最大化する「確信」が得られるように導かれていることなのである。

学ぶ・考える・やってみる(その1)

moriyasu11232012-09-06

一昨日から昨日まで、院生時代に所属した研究室(Lasbim)のY先輩がコーチを務める小平奈緒選手&信州大学スピードスケートチームが、本日出発するカルガリー合宿前恒例の体力測定のために来室。
小平選手は、2010年バンクーバー五輪で日本代表最多の4種目に出場し、個人2種目で5位入賞、団体追い抜きでは銀メダルを獲得しているが、以下の連載記事では「スケート部がない長野・伊那西高から、国立の信州大学に進むという、異色の経歴を持つスケーター(by冨重圭以子氏)」と紹介されている。
先のエントリーでも触れたが、彼らのようなアスリートに「異色・異端」という枕詞をつけたくなる我々の「まなざし」はどこから到来するのか。
この点についてはラディカルに問われる必要があるだろう。

◇大学でつかんだ理論
信州大学スケート部の新入生は、入学から1カ月間、長野市にある教育学部キャンパスの一角で座学にいそしむ。同学部教授を務めるスケート部の結城匡啓(まさひろ)監督(45)による講義が連日行われる。通称「結城理論勉強会」だ。
速く滑るにはどういう動きが適切か、なぜなのか、その動きができるようになるには、どこの筋力が必要で、その筋力を鍛えるトレーニングとは−−。筑波大でスポーツ科学を学び、スピードスケートの選手としても活躍した結城監督が構築した理論が、部員に一気に注入される。
5年前、1年生だった小平は、初めて勉強会に出たとき「これだ」と思った。そして、すぐに決断した。「自分のスケートを一度真っ白にして、新しいスケーティングにしようと思った。時間はかかっても、変えたかった」。結城監督も、その時の小平の強い視線を覚えている。「系統だった理論を学びたい、と本当に思っているんだな」と感じた。
小平は中学時代に信州大スケート部の練習を偶然に見たことで、信州大を志した。「がむしゃらにメニューをこなすのではなく、目指していることが見えてくるようなチームだった」。将来は教師になりたいという夢も、この大学なら実現可能で一石二鳥だった。(…)
国立大学には、スポーツ選手の特別扱いはない。1年生時は松本キャンパスで授業を受けたので、練習は長野にある屋内リンク「エムウェーブ」まで1時間以上かけて通うか、浅間温泉にある屋外リンクで行うしかなかった。3年生のときには教員免許取得のため、母校の茅野北部中に1カ月間の教育実習に赴き、練習時間の減少は避けられなかった。しかし後悔はないばかりか「全部プラスになった」と言い切る。
「たとえば」と小平は言う。子供にスポーツを教えることをテーマにした授業で、スポーツの苦手な子供の動きのまねができると良い指導者になる、と教わった。「苦手な人の動きのまねができるなら、上手な人の動きもまねできるはず。今度スケートでやってみよう」。授業中も頭のどこかでスケートのことを考え、思いついたプランを書き込んだから、ノートは真っ黒になった。
4年生で取り組んだ卒論も、時間はとられたが、面白いうえに役に立った。テーマは「女子千メートルでの世界一流選手のカーブワークの動作解析」。3年生の3月に、長野で世界距離別選手権が開かれた。結城研究室の大学院生が高速ビデオでレースを撮影するというので、自分も出場する女子千メートルの撮影も依頼した。上位20人の映像をパソコンに取り込み、動きを分析した。(…)4年生の夏、日本代表のカルガリー合宿での小平の滑りを見て、結城監督は驚いた。カーブの入り口での体の使い方が抜群にうまくなり、速いラップで長く滑れるようになっていた。
スケート関係者の中には「小平が大学に行かなければ、トリノ五輪に出場し、2度目のバンクーバーでは個人種目でもメダルを取れた」という声がある。しかし小平は「大学回り道」説を、きっぱり否定する。「大学の4年間がなかったら、いまの自分のスケートはありません」。自分が考えて決断した道は正しい、という確信が、揺らぐことはない。
(2010年4月27日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/1」より抜粋)

( -_-).。oO(今年47歳かY先輩は…)
「結城理論勉強会」は、コーチの中に確信として現れている「理論」を選手達と共有することにより、相互のコミュニケーションを成り立たせるための礎(言語)を築くことが目的であるといえる。

動画やパノラマ写真を見ても、選手には、そこに内在する技術、すなわち、どこをどのようにすればよいのか、という知識(暗黙知)が理解できない。そこで、(…)「カーブでは、身体の真横の方向に押すことが重要であるが、実際には進行方向は時々刻々と左方向に変化しているため、望ましい局面で真横に押すためには、予め押す方向をやや前方向にするとうまくいく」という、『方向の先取り』という技術(暗黙知)を提示する。このことが理解できるようになると、選手は、最初はただ眺めているだけであった動画やパノラマ写真から、方向が先取りされているかについて観ることができるようになる。
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

アスリートやコーチは,「事実=現実の世界で実際に観測されている事象」をもとに立論された「仮説=頭の中で考えられた検証される前の理論」に依拠しながらトレーニングを実践していくが,この「仮説」の妥当性が日々の実践のなかで繰り返し検証されることを通して「理論=実証された事象間の関連」が構築されていく。
換言すれば,確固たる「事実」の裏づけがあり,かつこの「理論」に基づいて「事実」が起きていると多くの人に(または自分の中に)確信として現れたものが「(科学的)理論」ということになる。

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

「技術カルテ」というのを、どの選手ともやりとりしています。運動指導の理論の中には、「他者観察」と「自己観察」という言葉がありまして(…)「自己観察」の力をいかにつけるかがたぶんポイントで、そこに言語能力が密接に関係していると思うのです。(…)言語能力というのはたぶん、言葉の意味を知っているかということではなく、身体の知識としての自分の感覚を、自分の中で再現性のあるものとして書けるかどうかと私は解釈しています。(…)「技術カルテ以外にも、「技術討論会」といって、例えば小平選手であれば、メダルを取る前の段階で、ビデオを見て自分がどういうふうになっているか、去年意識していたこと、今年意識していたこと、大学四年生の時に意識していたこと、社会人一年目で意識していたことを資料化させます。これは。「技術討論会」という練習メニューの一つです。(部員)全員で共有しようということで。理論が先にあると言葉が一緒なので話し合いになります。
(by結城匡啓氏)

さらにこの「理論」は,それを“信じつつも疑う”こと,すなわち一端「構築」した理論を再び「解体」することの矛盾に引き裂かれながら「再構築し続ける」ことによってのみ洗練化が可能となる。
この「理論」を「再構築し続ける」という作業は、すなわち「理論と実践の往復運動」にほかならない。
「理論」を共有することによって選手達の「理論と実践の往復運動」が駆動し、そのプロセスに関わることでコーチの「理論と実践の往復運動」がさらに深化していくのである。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流になった。陽明学というのは何かといえば、『知行合一』。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。しかしこれは、『知ったことが出力されないと意味が無い』という意味だと思います。これが『文武両道』の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並行していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
(by養老孟司氏)

「学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない」を一歩進めれば、「学んだことと行動とが互いに影響しあえばこそ、高いパフォーマンスに行き着くことができる」となるだろうか。
前出の書籍&論文においては、一連の座学による勉強会も「練習メニューのひとつ(by結城コーチ)」であることが盛んに強調されているが、これは「知行合一(文武両道)」を目指した重要なトレーニングとして位置づけられていることの現れといえるだろう。

◇父と二人三脚、原点に
2月のバンクーバー五輪小平奈緒の両親、安彦さん(55)と光子さん(54)は、スタンドで3人姉妹の末っ子を応援した。2人とも海外は初めて。最後の種目、女子団体追い抜きで表彰台に立った娘の姿を目に焼き付け、幸せを感じた。
安彦さんが一番印象に残っているのは、日本選手団鈴木恵一・総監督にかけられた言葉だ。「小平は五百メートル2本、千メートル、千五百メートル、パシュート(団体追い抜き)の3レース、全部で7本もこなした。多分、世界中でたった一人しかいませんよ」。我が子ながら、すごい、と改めて思った瞬間だった。
小平の人生最初のコーチは、スケートの選手経験など全くない会社員の安彦さんだった。小学校のクラブでスケートを始めていた姉たちを、近所にできた茅野国スケートリンクで練習させようとした時、当時3歳の小平を置いていくわけにもいかず、連れていったのが始まりだった。リンクサイドにスケート靴をはかされたまま放っておかれた小平は、いつの間にか氷上に立って、リンクを1周していたという。
小学校では姉たちの後を追うようにスケートクラブに入り、姉たちよりも熱中した。末娘のために、安彦さんはサポートを考えた。「ゴルフやテニスには初心者用の指導書があるのですが、スケートにはなかった。仕方がないから、地元の茅野や岡谷で実業団の大会が開かれると、奈緒と一緒に見に行きました」
たまたま茅野のリンクで受付をしていた光子さんは、日本代表クラスの選手が大会前に練習に来ると、電話で連絡したりもした。「白幡(圭史)さんが来たよ」。母の電話で、父子は急いでリンクに行った。「練習やレースをじっと観察して『こんな練習をしていた』とか『足をこう動かしていた』とか、2人でよく話しました」と安彦さん。
試行錯誤で、間違った指導だったかもしれない、と父は首をひねるが、小平は「私のスケートの原点は父です」と感謝している。「見て、考えて、やってみる、というサイクルを教えてくれたのが、父ですから」
小学5年のとき、小平のスケートへの熱中度を一気に増す出来事が起きた。地元・長野で開催された98年の冬季五輪だ。小平は五百メートルで金メダルを取った清水宏保と、銅メダルの岡崎朋美のビデオをテープがすり切れるほど見た。中学2年のころ、本当にテープが切れてがっかりした。
五輪後の両選手の特集番組も欠かさずチェックして録画した。ある番組で岡崎が階段ダッシュのトレーニングをしていると、見終わった後、自分も近所の坂を駆け上がる練習をした。「ただただ、速くなりたかった。岡崎さんみたいにきつい練習をしたら、速くなる、と思っていた」
小学校に入ったころから「将来はオリンピック選手になりたい」と口にしていたが、「『ウルトラマンになりたい』と言うのと同じ感覚だった」と笑う。だが長野という土地で、五輪の空気を体で感じたことで、五輪選手という夢を、本気で考え始めた。
(2010年4月28日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/2」より抜粋)

( -_-).。oO(長野五輪のとき小5だったのか小平選手は…)
スケートの選手経験がない父とその娘という師弟関係が織りなす試行錯誤は、ごく自然に「見て、考えて、やってみる」という「学び」のサイクルを起動させ、地元開催の五輪が「なりたい自己(オリンピック選手)」を強烈に意識させ、「なれる自己」すなわち自分の中に眠っている可能性をさらに拡げたいという思いが、積極的に新しいことを学びたいという意欲へと繋がっていく。

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人が何かに動機づけられるとはどういうことなのか(…)そのとき、行動が自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかという区別が大変重要である。自律ということばは、もともと自治を意味している。自律的であることは、自己と一致した行動をすることを意味する。(…)確かな自分から発した行動なので、それは偽りのない自分(authentic)である。統制されているときはそれとは対照的に、圧力をかけられて行動していることを意味する。統制されているとき、その行動を受け入れているとは感じられない。そういう行動は自己の表現ではない。なぜなら、統制に自己が従属しているからである。まさに疎外された状態だと言ってよい。
(byデシ氏)

スケートに対する好奇心や興味(面白さ)に促され、自律性と有能感がともに高められた状態の小平選手のコーチングは、実の父親から「スケートの技術を教えていることにひかれた(by小平選手)」という新谷純夫氏に引き継がれることになる。

◇停滞期は無理しない
長野県を貫く中央アルプスの最高峰、木曽駒ケ岳の東に位置する宮田村に、ジュニア向けスケート教室「宮田スケートクラブ」はある。中学生になった小平奈緒は、新谷純夫(しんや・すみお)さん(60)が指導する、このクラブの門をたたいた。新谷さんはバンクーバー五輪に出場した新谷志保美の父だ。
「強い選手がいると聞いて、父とクラブの練習を見に行ったら、新谷先生がこうしろ、ああしろ、と厳しく指導していた。やってみたいな、と思った。スケートの技術を教えていることにひかれた」と小平は言う。
中学のスケート部活動が終わると一目散に帰宅。夕飯をすませて車で出発。父・安彦さんか母・光子さんの運転で、茅野市の自宅から片道1時間半の峠越えドライブだ。練習後、自宅に帰り着くのは夜10時を過ぎる。この生活を3年間続けた。
宮田クラブの近くにリンクはないが、ローラースケートで技術を教え、新谷さんの自宅そばの急坂でダッシュをしたり、自宅のウエートトレーニング場に据え付けられた、自転車エルゴメーターやスライドボード、ウエート機器を使って鍛える。
滑る技術を学んだ小平は、急速に進歩した。中学1年の1シーズンで、五百メートルのタイムは5秒も短縮した。「力任せだったのが、『どうやってスケートを滑らせるか』を初めて覚えたのでしょう」と新谷さんは振り返る。
小平が中2のとき、才能は全国に知れ渡った。地元の茅野市で開催された、参加資格14歳から19歳の全日本ジュニア選手権で、高校生や大学生を押しのけ、女子スプリント部門で優勝したのだ。2月のバンクーバー五輪で、当時中学生で出場した高木美帆が話題を集めたが、小平も当時「スーパー中学生」と注目された。
ちょうどそのころ、中学の進路相談で、小平は伊那西高志望を伝えた。東海大三佐久長聖など、県内のスケート強豪校からも誘いを受けたのに、あえてスケート部のない伊那西を選んだのは「信州大受験を考えていて、進学コースがあったから」という。「強豪校だとスケートだけになっちゃいそうで」。さらに伊那西は宮田村の隣町、伊那市にある。スケート部はなくても、新谷さんの指導を受け続けられるということも背中を押した。
高校では、スケート同好会としてインターハイに出場、高3で短距離2冠を達成した。この2冠で再び脚光を浴びたが、小平は内容に納得せず、大学でスケーティングを変えることを思い立つ。そのあたりの事情を、新谷さんはこう語る。
「選手ならだれでも経験する停滞期が高1、高2で来た。停滞期に新たな技術を教えても実にならないから、体力トレを主体にした。3年の時は、いままでの財産で勝てるようアドバイスしたが、技術は教えていない。伸びしろを十分残して、結城さん(信州大監督)につないだ」
だれもが認める潜在能力を、促成栽培せずにじっくり育てる周囲の指導方法は、小平には合っていた。
(2010年4月29日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/3」より抜粋)

中2のときに高校生の吉井小百合氏を破って全日本ジュニア選手権で優勝し、高3のインターハイではスケート同好会所属で短距離2冠を達成した「異色」のスケーターのコーチングは、「伸びしろを十分残して(by新谷氏)」結城コーチに引き継がれることになる。
このバトンパスの重要なポイントは、スピードスケートに必要な「技術と体力の相補性」に関する渡し手と受け手の共通認識にあったといえるだろう。

スピードスケート滑走は、幅1mmのブレードを身に着け、空気抵抗を避けるために身体を屈曲させた姿勢で片脚で身体重心を支持し、重心を加速するように次の支持脚に重心を移動する非常に負荷の大きな運動である。そのため、獲得したいある技術を、頭では理解していても、必要な体力が備わっていなければ、その技術は達成されないのである。(…)
パフォーマンス完成期に近づくと、技術と体力を分けて考えるのではなく。技術がないから体力がつかないのか、体力がないから技術ができないのか、常に相互に関連させて考えていかねばならない。
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

巧みな動きやよい動きには、それを実現するための「運動技術」が内在している。
この「運動技術」は、「そのときの運動課題を達成するために生理学的エネルギー(発生エネルギー)を力学的エネルギー(出力エネルギー)に変換し,その力学的エネルギーを運動課題に応じて効果的に使うための運動経過として包括的に捉えるべきである(by阿江通良先生)」というのが「技術・体力の相補性原理(by村木征人先生)」である。

リディアードのランニング・バイブル

リディアードのランニング・バイブル

レーニングの究極のねらいは、簡単な話、自分が出場しようとしているレースをスタートからゴールまで、自分が目標としているタイムを出すために必要とするスピードで走りきるだけのスタミナをつけることである。
(byリディアード氏)

さすがはリディアード、間然するところがない。
ここでいう「スピード」はすなわち「スタミナ(持久力)」であり、つまり「スタミナ」は「スピード」でもあり…(以下略)そして「スピード」と「スタミナ」を接続(融合)させるのは「技術」である。

(選手が「技術カルテ」に書いた言葉が分からないことはないのか?という問いに対して)それはないです。それは、その学生がどうして信州大学に来たのかにとても関係があって、小平選手の場合は、私にノウハウがあることをわかっていて入学してきました。(…)彼女の場合は、結城理論は乾いたところに水が入っていくように吸収していきました。(…)だから、信州大学に来て欲しい選手は、気持ちがあって、特にやる気だけがある子でいいんです。やる気があって、まっさらな選手のほうが怪我もしていないしいいのですと高校の先生方に話します。
(前掲書『わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ』より抜粋)

高校3年時に新谷氏の「理論」によって技術的な要素に踏み込んでいれば、恐らく一時的なパフォーマンスは高まったはずである。
しかし、中長期的な「技術と体力の最適化」を念頭においたときには、「停滞期に新たな技術を教えても実にならないから、体力トレを主体にした(by新谷氏)」という炯眼によって「新しい技術の獲得」に向けたスムーズな移行が果たせたとみることもできるだろう。
その2へつづく

しがみついてきたハードラー

moriyasu11232012-08-10

Men 400-Metres Hurdles Final Startlist
Lane2 Kerron Clement(USA) 48.12(SB:1組3着)
Lane3 David Greene(GBR) 48.19(1組4着)
Lane4 Angelo Taylor(USA) 47.95(SB:2組2着)
Lane5 Javier Culson(PUR) 47.93(2組1着)
Lane6 Michael Tinsley(USA) 48.18(SB:3組1着)
Lane7 Felix Sánchez(DOM) 47.76(SB:1組1着)
Lane8 Jehue Gordon(TRI) 47.96(NR:1組2着)
Lane9 Leford Green(JAM) 48.61(SB:3組2着)
※準決勝記録および着順

05年ヘルシンキ世陸以降、昨年までの五輪および世陸における準決勝通過の平均記録(準通記録)は48.4秒前後(8番目記録は48.6〜48.8秒)であったが、今回は8番目記録は48.61秒だったものの、48.23秒(2組3着)のシスネロ(CUB)が敗退するなど、準通記録は48.09秒という稀にみるハイレベルの準決勝となった。
決勝で2レーンを走るクレメントは、05年ヘルシンキ世陸で為末大氏にラストでかわされ4位となった後、07年大阪世陸(1位)、08年北京五輪(2位)、09年ベルリン世陸(1位)と順調にキャリアを積んできたが、昨年の大邱世陸では準決勝で敗退している。
3レーンのDグリーンは、一昨年の欧州選手権で優勝し、昨年の大邱世陸で念願の世界チャンピオンの座に着いた選手。7月のグランプリでPB(47.84秒)をマークしており、好コンディションで本番に臨んできた。
4レーンのテイラーは、00年シドニー五輪&08年北京五輪の覇者。昨年の大邱世陸7位の雪辱を果たすべく、準決勝でもSB(47.95秒)をマークして順調に勝ち上がってきた。
5レーンのクルソンは、09年ベルリン世陸と11年大邱世陸で銀メダルを獲得し、表彰台の常連になっている選手。今季は五輪前に複数回47秒台をマークするなど満を持して世界チャンピオンを勝ち取りに来た。
6レーンのティンスリーは、07年に48.02秒をマークするなど世界トップレベルの力をもっていたが、王国アメリカの3人枠という高いハードルに跳ね返されて世界大会に駒を進められずにきた選手。今回、全米チャンピオンとして初の世界大会に挑んでいるが、準決勝でもSB(48.18秒)で1位通過を果たすなど好調さが窺える。
7レーンのサンチェスは、01年エドモントン大会から04年アテネ五輪まで連戦連勝した選手であるが、それ以降ケガをきっかけに不振に陥る。大きなケガを経験したベテラン選手のコンディショニングは容易ではないが、準決勝で04年以来の47秒台(SB:47.76)をマークして勝ち上がってきたのは完全復活をアピールするに十分な内容といえるだろう。
8レーンのゴードンは、09年のベルリン世陸で4位入賞(48.26秒)を果たしてファイナリストの仲間入りをしたが、10年世界ジュニアで2位となった安部孝駿選手とのデッドヒートを演じて優勝した選手でもある。準決勝で初の47秒台(NR:47.96秒)をマークし、昨年の世陸準決勝敗退のリベンジを目論んでいる。
9レーンのLグリーンは、昨年の大邱世陸(準決勝敗退)で初のジャマイカ代表となった選手。落選したシスネロ(CUB)よりも記録は悪かったが、組み合わせも奏功して決勝に駒を進てきた。
いずれにせよ、最年長(サンチェス・34歳)と最年少(ゴードン・20歳)の歳の差が14歳という、なんとも400mHらしい顔ぶれとなった。

Men 400-Metres Hurdles Final Result
1位 Felix Sánchez(DOM) 47.63(SB)
2位 Michael Tinsley(USA) 47.91(PB)
3位 Javier Culson(PUR) 48.10
4位 David Greene(GBR) 48.24
5位 Angelo Taylor(USA) 48.25
6位 Jehue Gordon(TRI) 48.86
7位 Leford Green(JAM) 49.12
8位 Kerron Clement(USA) 49.15

さて、実際のレースである。
1台目のアプローチでは、サンチェス、クルソン、テイラーが一歩リード。僅差でゴードン、ティンスリーが続き、クレメント、Dグリーン、Lグリーンはやや抑え気味の入り。
3台目では、クルソンとテイラーが一歩リード。サンチェスが僅差で続き、やや遅れてゴードン、ティンスリー、クレメント、Dグリーン。Lグリーンは少し後ろに引き気味。
5台目もクルソンとテイラーがリード。少し遅れてサンチェスとクレメントが通過し、その後ろにDグリーン、ティンスリー、ゴードン。Lグリーンは後半に備えているのか、さらに後方に引いた位置取り。
7台目もテイラー、クルソン(ハードルを引っかける)がほぼ並んでハードルに入るが、少しずつ間合いを詰めてきたサンチェスが前の2人をほぼ射程に入れる。僅か後ろにゴードン、ティンスリー、クレメントが続き、後半型のDグリーンとLグリーンはさらに後方から追う形となる。
8台目では、クルソン、テイラー、サンチェスがほぼ横並びで先頭争い。ゴードン、ティンスリー、Dグリーンも少しずつ彼らに近づいてくる。いつもより一台早めに?ハードルに足が合わなかったクレメントと終止後方を走っていたLグリーンは表彰台争いの圏外に去る。
9台目では、サンチェスが疲れの見えるテイラーとクルソンを捉えて先頭に立ち、満を持して追い上げてきたティンスリーが4位に上がる。少し遅れてゴードン、Dグリーンが通過。
10台目もサンチェスがリードし、クルソン、ティンスリー、テイラーの2位争い、少し遅れてDグリーン、ゴードンの順に通過。
その後は、中盤から追い込んできた勢いを最後まで維持したサンチェスが1位でフィニッシュ。
前半抑え気味だったティンスリーが、10台目を越えてからクルソン(3位)とテイラー(5位)を指しきって2位となり、昨年の大邱世陸覇者であるDグリーンは追い上げ及ばず4位フィニッシュ。
準決勝で自身初の47秒台(NR)をマークしたゴードンは力尽きて6位、以下Lグリーン、クレメントの順にフィニッシュラインを通過していった。

男子400メートル障害は、34歳のサンチェスが2大会ぶりの金メダルを手にした。持ち前のハードリングで前半からリードを広げ、最後の100メートルでもライバルを寄せ付けなかった。
2001年から04年にかけて43連勝し、アテネ五輪ではドミニカ共和国に初の金メダルをもたらした。ただ、05年からは足のけがに悩まされ、08年北京五輪は予選落ちだった。「多くの人に引退すべきだと言われてきたが、しがみついてきた。国民がこの勝利を喜んでくれるだろう」。8年ぶりの復活優勝に、表彰台の上で泣き崩れていた。
(2012年8月7日 朝日新聞デジタルサンチェス、復活の金 陸上に「しがみついてきた」と涙』より)

サンチェスは8月30日に35歳を迎えるが、その直前の34歳342日目に五輪優勝を果たし、同種目の最年長メダリスト記録を104年ぶりに約1歳更新したとのこと(by産経ニュース)。
約13年前の22歳の時、99年セビリア世陸(49.67秒で予落)で世界大会デビューを果たし、同年に48.60秒をマークしている。
翌年、為末大氏の世界大会デビューとなったシドニー五輪では準決勝敗退(SB:48.47秒)するも、01年のエドモントン世陸では47.49秒の好記録で見事に優勝を果たしている(同レースで為末氏が初の銅メダルを獲得)。
以降、03年パリ世陸で47.25秒(PB)をマークして優勝するなど、04年アテネ五輪ドミニカ共和国初の金メダルを獲得するまで36連勝(予選と準決勝を含めると43連勝)し、自他共に認める“(ドミニカン)スーパーマン”(by TBS)となった。
しかし、アテネ五輪直後のゴールデンリーグ(ブリュッセル)のレース中にハムストリングを負傷し途中棄権すると、翌年のヘルシンキ世陸でも決勝のスタート直後に同じ部位を痛めて途中棄権(同レースで為末氏が2度目の銅メダル獲得)。
以降の世界大会では、07年大阪世陸で銅メダル(48.01秒)を獲得するものの、08年北京五輪では予選落ち(SB:51.10秒)、09年ベルリン世陸では8位(SB:48.34秒)、11年の大邱世陸で4位(48.87秒)など、ここ数年は持ち味の“前半型”を封印した自重気味のレースで47秒台と表彰台を逃し続けていた。
今回は、これまでの鬱憤を晴らすかのように往年の“前半型”を復活させたが、奇しくもアテネ五輪と同記録(47.63秒)でのフィニッシュとなった。
アテネ五輪から8年。
この時間が、彼にとって長かったのか短かったのかは知る由もないが、この間に経験したであろう様々な人生の契機をへてもなお400mHに「しがみついてきたハードラー」の想いは、決勝レースのパフォーマンスとこの表彰式に集約されている。

短距離種目はそれぞれのレーンを走るから、他の選手と体はぶつからない。それでも、戦う相手は時計ではなく人間だ。「対人競技」と言ってもいい。同じ組で走る選手のリズムに影響されて自分のリズムを崩されれば負けだ。
特に400メートル障害は短距離種目ながら、走り幅跳びの助走を10回繰り返すような側面もあり、非常に微妙だ。同走している相手との間合いを測り損ねて前半で少し狂うと、終盤に大きく影響する。(…)
世界のトップクラスは停滞しており、日本選手が再び決勝の舞台に立つ可能性はある。もっと海外で“出げいこ”を重ねて外国選手と走る経験を積むことが大事だ。悲観することはない。
(2009年8月20日 朝日新聞『短距離だって対人競技(山崎一彦の目)』より抜粋)

大切なことなので何度でも繰り返すが、「対人競技」としての400mHにとって最も重要なトレーニングは、「自分よりも速い選手と(レースで)競走する」ことに尽きる。
高い緊張感のなかで、内側の選手に追い立てられたり、外側の選手にあっという間に置いて行かれる、という経験を積み重ねることでしか得られない「心技体」がある。
今回、全米チャンピオンとして初の世界大会に臨んだティンスリー、毎回優勝候補にあげられながらもあと一歩のところでそれを逃し続けているクルソン、テイラー以下の表彰台に上がれなかった選手達、初の五輪代表として挑み予選敗退した日本の3選手、そしてこの3選手に五輪の舞台に立つことを阻まれた他の日本人選手達…彼らはそれぞれに質の異なる「壁」にぶつかったと思われる。
しかし、どの「壁」を突き破るにしても、それにぶち当たった「痛み」に真正面から向き合いつつ、世界で戦いたいという本物の気持ちで「しがみつき」ながらトレーニングを継続する以外に道がないことだけは確かだろう。
世界のファイナリストを志す多くの日本人400mH選手の今後に期待したい。