東京オリンピックの遺産

moriyasu11232012-12-18

11月12日から22日までの平日9日間、先のエントリーでもご紹介した東京オリンピック日本代表選手を対象とする4年に一度の追跡調査が、日本体育協会国立スポーツ科学センター(JISS)との共同研究により実施された。
12回目となる今回は、初回のオリンピック医学アーカイブスの対象者380名のうち、連絡先が把握できている方(282名)にアンケート用紙を送付して204名の方々からご返送いただくとともに、JISSにて実施された体力測定とメディカルチェックには119名(男性90名、女性29名)の方々にご参加いただいた。

「温故知新」という科学的態度
この追跡調査は、平均年齢で古稀(70歳)を迎えられた元トップアスリートが青年期に培った健康・体力の「持ち越し効果」に関する量的なエビデンスのみならず、引退後の多様なライフスタイルやスポーツ享受に関する質的なエビデンスを提供してくれている。診察や測定の合間の雑談でも、当時のトレーニング、合宿および遠征での苦労話、仕事と競技の両立、さらには現役引退後の仕事やスポーツへの関わり方などなど「ナラティブ(物語)」のテーマには事欠かない。そんなさなか、JISSの佇まいに目を細めつつ「今の選手達は恵まれているね」とおっしゃる方々、反対に「今の選手達は(スポーツが仕事なので)大変だね」と気遣う方々に笑顔で頷きながら、この半世紀でスポーツ界が「得たもの」と「失ったもの」について考えずにはいられなくなる。
治療困難な疾病が数多あった明治以前には、身体を含む「自然」の流れを重視する「養生」という概念があった。その代表例ともいえる貝原益軒の「養生訓」には、「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」という記述が繰り返し用いられている。「古典(Classic)」という言葉は「階級(Class)」の概念を包含しており、そこには長期間にわたって生き残っているものは上等であるという意味が付与されているというが、古典的な歴史や伝統を学びつつ、それを人々が持つべき良知・良識へと昇華させる温故知新とは、まさに広義の科学的態度と呼ぶべきものといえるだろう。
後世に贈り届ける「遺産」とは
昨年8月に公布・施行されたスポーツ基本法の前文には、「スポーツは、世界共通の人類の文化である」と謳われている。一般に「文化」とは、「人間が単なる生物的存在以上のものとして生の営みをよりよきものとするために、所与の社会において世代から世代へ創造的・発展的にあるいは変容されて受け継がれる行動様式の総体」と捉えられている。このことはすなわち、我々の社会におけるスポーツが、生活の質(Quality of life)に充実をもたらす「文化」として、世代から世代へ創造的・発展的に受け継がれ、その文化的機能を豊かに発揮しているかが問われていることを意味する。
昨今、「遺産(レガシー)」という言葉が流行のようだが、そもそもある営みや創造物の遺産的価値をリアルタイム(または事前に)に査定・考量できるとしたら、それは遺産という言葉の意味からして語義矛盾を生じる。「遺」という文字には「残す、とどめる、忘れる、失う…」だけでなく「贈る」という意味が付与されていることを参照するまでもなく、価値ある遺産となり得るか否かは、後世の歴史的文脈によって「事後的に」判断されるよりほかないのである。
スポーツが、国家的な身体統制や社会制度、さらには教育や健康の「手段」を超えて、日常生活の中で「楽しみごと」や「生きがい」として大切にされ、かつ「文化」として洗練されていくためには、先達が刻んできた「時間(プロセス)」を、温故と知新がともに可能となるような有形、無形の「エビデンス」として後世に贈り届ける必要がある。(…)
(拙稿『東京オリンピックの遺産(連載・スポ研Now)』Sport Japan(Vol.5)より抜粋)

ご協力いただいた全ての皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。
ありがとうございました。