アサファ・パウエルの憂鬱(その3)

moriyasu11232008-03-23

先のエントリー(その2)からの続き。
「病(居着き)」を回避するという課題を「メンタル」の問題として考えている限り、私たちはエンドレスのアポリアに陥ってしまう(引っ張ってすみません)。

善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つものは与せず。(老子「第68章」)

漢語の古語である「与する」には「同盟する」と「敵対する」の両義があるそうだが、これはすなわち「コミットする」という意味に集約されると考えられる。
つまり老子は、「同盟」も「敵対」も、畢竟「主体と敵」という二元論であることに変わりはないといっているのである。卑近な例で言えば、アメリカとイラクアルカイダ?)の関係などが象徴していることでもある(昨友今敵?)。
「主体と敵」という二元論で考える限り、敵の能力はできるだけ低い(限りなくゼロに近い)ことが望ましい。
これは、受験生が偏差値の向上(または志望校合格)を望むあまり、自身の絶対的な学力向上だけでなく、他人の学力低下を意識的・無意識的に欲望してしまうこともその一例だが、他にも枚挙にいとまがない。
この種の欲望は、「居着き」、すなわち自身のパフォーマンスの最大化(最適化)よりも別の「何か」に気を取られている「待ち」の状態といえる(私もよくある)。
老子は、「善く敵に勝つ者は、敵と同盟することもなく、また敵対することもない」という、脱二元論的視座を与えてくれている。
これは、「身体」を「自分と敵」が複合的に構築している「システム」ととらえれば、敵はむしろハイパフォーマンスでありつづけることこそ望ましい、というもともと「武道」に内在していたコンセプトにも通底する。
そしてその究極は、敵を忘れ、我を忘れ、弓の使い方や戦うことの意味さえ忘れた、史上最強の弓の名手「紀昌」のような仙人的存在に集約される。
彼には、もはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もなく、その身体運用は、あらゆる「居着き」を忘れた、完全に予見不能の自由自在な境地に達しているからである(「試合」は成立しないけど…)。
「勝敗を競う」、すなわち「敵」と対峙する身体は、「敵」への意識が必ず身体に兆候化し、それが「居着き」を呼び、身体的パフォーマンスに少なからず抑制がかかる。
「失敗」は、文字通り何かを失ったり勝負に敗れたりすることであるが、それを予測(意識)することもまたしかりである。
「敵」対することによって「居着く」。
日本のスポーツ界は、この「競技性がもたらす身体能力の抑制」という主題についてもう少し関心を持ってもよいのではないだろうか。そこから発想することが、実はパフォーマンスを高めるための近道かもしれないということも含めて…
では、どうすればよいのか?(私にわかるわけがない)
「矛盾」とは、つじつまが合わないことではない(そういう意味もある)。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」は両立し得ない。しかし、この「矛盾」に耐えなければ、武具の進化はない。優れた矛の存在無くして、優れた盾の存在はあり得ない。
対立するものを、対立したまま存立させることを「術」と呼ぶ(by甲野善紀氏)。
自分と何かを「敵対」させるのではなく、「敵」の存在をも自身に取り込むという「矛盾」を抱えこんでなお、よりよい身体運用「術」を模索し続けようとする身体的知性にこそ、高いパフォーマンスが宿る可能性がある。

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

弓射る時に、弓射るとおもふ心あらば、弓さきみだれて定まるべからず。(…)弓射る人は、弓射る心を忘れて、何事もせざる時の常の心にて弓を射ば、弓定まるべし。(…)何もなす事なき常の心にて、よろずをする時、よろずの事、難なくするするとゆく也。
(by柳生宗矩氏)

「弓を射るときは、弓を射ようと思ってはいけない」ということは、「射る」ことと「射ようと思う」ことを分けること、すなわち「弓を射る」という身体の動きと「弓を射ようと思う」心の動きをリンクさせない「非中枢的な身体運用」の必要性を意味するのであろう(ヘリゲルもそう言っている)。最近の脳科学や生態心理学(アフォーダンス研究)などは、少しずつこの手の問題に接近しつつある(気がする)。
これは、陸上競技の競走種目における最大の課題である「どのように疲労を回避(先送り)するか」という問題ともおよそ無関係ではないように思われる。
自身の脳(意識と無意識)と身体の動きとの関連性に気付こうと「意識」しながら、同時にそれを切り離していく「術」を身につけること。さらに言えば、日々そのことの意味について模索し続けているか否かが、武の世界においてはまさに「生死を分かつ」こととなり、トレーニングにおいては、その効果を大きく左右するものとなる。
そして、それは「実践」、すなわち自身の行為のなかで構築していく以外に道はない。
畢竟、日本の優れたコーチや選手が口にする「行住坐臥」「武士道」といった言葉は、単に自律的態度の重要性を唱えているのではなく、パフォーマンスを高めるための具体的方略という極めてテクニカルな意味で用いられているのである。
ともあれ、パウエルが人類史上「最速」と「最強」を同時に成し遂げる瞬間を、この目で見届けたいものである(頑張れアサファ!)。
ということで、全然まとまってないけど「完」。