体力低下問題のモンダイ

moriyasu11232009-02-10

『初の全国調査、体力向上に役立つか 全国体力調査』
文部科学省が21日付で発表した「全国体力・運動能力・運動習慣調査」は、この種の調査で初めて「全員参加」が掲げられ、全国の小学5年と中学2年を対象に実施された。文科省は「数年は続け、体力の向上につなげたい」と意気込むが、調査結果をみても、これまで長年実施されてきた抽出調査と比べて目新しい要素は少ない。
文科省によると、「一斉調査」を思い立ったきっかけは、子どもの体力低下に歯止めをかけ、上昇に転ずるという目標を明記した06年のスポーツ振興基本計画の改訂だったという。「学力と比べ、体を鍛えることやスポーツを軽視する傾向が指摘される」とし、正しい認識のために「国民運動を展開する」と宣言している。
「国が音頭をとって全国調査をし、運動習慣などと共に示せば、自治体や学校は熱心に取り組むはずだ」。背景には、こんな発想があったという。全国学力調査が07年度に始まり、「それなら体力の全国調査も」という流れができていった。
今後、子ども一人ひとりに自分の記録と自分が住む都道府県の平均、そして全国平均が書かれた紙が配布される。文科省は「親も子どもの体力の実態を知ってほしい。国民や自治体、先生の関心を実践につなげてほしい」という。しかし、こうしたことが「一定水準を達成しなければならない」という強迫観念を抱かせ、逆に運動嫌いの子を増やしてしまう恐れもある。放課後に使える時間と場所はどこも減っており「『もっと体を動かそう』といってもかけ声倒れになる」という指摘もある。
今回の調査で文科省は、全国学力調査と同じく実施要領を設け「都道府県は市町村別や学校別の数値を公表しない」というルールを盛り込んだ。今回の結果は点数化されており、個別のデータが表に出ると競争意識をあおる恐れがあると考えた。
しかし、異を唱える動きが早くも出ている。結果が芳しくなかった大阪府橋下徹知事は「課題を分析し、学校現場に奮起してもらうためにも、市町村教委は結果を自主公表すべきだ」と強調した。鳥取県でも教育長が「個人的見解」として、公開請求があれば学力調査と同じく開示する方針を示唆している。同県では、個別具体的なデータの開示を求める請求がすでに3件出ているという。
調査費用は初回は1億8000万円。さらに多くの参加を見込む09年度調査では、3億円の予算が計上されている。多くの予算と労力を費やして行う必要性があるものなのか、今後、議論になりそうだ。(上野創)

「全国体力・運動能力・運動習慣調査」の概要

  • 全国の小5、中2を対象に08年に初めて一斉実施した体力調査で、参加率は国公立で7割程度。今後も数年程度は続けられる。
  • 握力、上体起こしなど8種目を調査。1種目10点、80点満点で換算すると、公立校の都道府県別平均点の上位、下位は全国学力調査と似た傾向に。
  • 「へき地」「町村」の方が「大都市」「中核都市」より合計点が高かった。
  • 1985年当時の抽出調査と比べ、ほとんどの種目で下回る。
  • 朝食を食べる習慣がある子ども、睡眠を十分とっている子どもは調査結果が良い傾向。
  • 小5女子の約23%、中2女子の約31%は1週間の運動時間が1時間未満。

(2009年1月26日 アサヒコム)

この調査については、文科省が昨年の結果速報をプレスリリースした1月22日に、各紙が一斉に報じた。各紙の主な内容は、以下の通りである。
毎日新聞は、今回の結果はこれまでの抽出調査から明らかになっていたことであり、来年度以降も調査する必要があるのかという疑問を投げかけ続けている。また、2月6日には、鳥取県教委が、次回から市町村別と学校別データの開示を前提に実施することを都道府県レベルでは初めて明らかにしたことを報じている。
読売新聞は、「中学女子 運動足りない」「2年生3割 週60分未満」「男子より競技・クラブ少なく場所も少ない」という大見出しをつけるなど、女子の身体活動量が低下していることを強調しており、「運動で体を動かすことは、子どもたちが社会性を身につける上でも重要なのに、この数字は危機的(…)小学生時代に身体を動かす楽しさを覚える機会がないため、中学に行ってもスポーツをしない」という山梨大学の中村和彦准教授のコメントを添えている。
朝日新聞は、上位の県の特徴的な取り組み(業間の活動や表彰制度など)を紹介するとともに、学力とともに下位に終わった大阪府が府下の小学生を対象とした駅伝大会を計画中であるといった動きや、そのような動きに対して現場の教員が競争加熱への不安を抱いていることにも言及している。
多少の違いはあるが、各紙とも概ね同じような内容である。
同じテーマで書かれた新聞(またはネット)記事をいくつか読めばすぐに分かるが、その多くは二次情報であり、新聞記者が独自に取材した情報などはあまりない。もちろん一次情報は、ほとんどが記者クラブ仕入れた官公庁や企業・団体のプレス発表であり、よくて電話取材で識者や担当者のコメントをとる程度である。
そんな中で、以下のようなコメントを掲載している朝日新聞を少しだけ評価したい(個人的には好きじゃないけど)。

学校の取り組み重要(文科省の調査の検討委員会委員長を務めた浅見俊雄・東京大学名誉教授(スポーツ科学))
運動習慣と体力調査の関係が出てきたのは今回の調査の成果だ。運動する層としない層の二極化も裏付けられ、それが体力の二極化になっていることもはっきりした。
学校の取り組みがしっかりしているところは運動能力も高いし、学校全体が活性化され勉強にも熱心に取り組む。だから学力調査の高さと体力調査の高さが重なる傾向があるのではないか。調査は先生の刺激にもなる。結果を踏まえ先生も校長も、運動習慣や体育指導に関心を持ってほしい。

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平均値に何の意味が(海老原修・横浜国立大学教授(体育学))
今回の調査では、握力、持久走などまったく違う種目の数値を足して合計点を出している。わかりやすくはあるが、これでは意味がなく実態も把握できない。いまの子どもは、小さいときからスポーツクラブに通って体を鍛えている子もいれば、まったく運動しない子もいる。そんな中で平均値を出すことに何の意味があるのか。
自治体や学校間の過度の競争につながることも懸念される。受験の暗記勉強のようで、運動を楽しむことにはならない。運動を通して友達とのふれあいを楽しめるような環境を整えることが必要だ。
(2009年1月22日 朝日新聞

この両者のコメントは、体力低下問題に潜む「モンダイ」をよく顕している。
このような立場の違いの背後には、基本的な「人間観の違い」がある。
一方は、大多数の人間は外発的な動機(外からの賞罰によって喚起される意欲)によって動くものとし、自律的に身体活動を行う能力にあまり信頼を置かない。大人側が「必要とされる体力」を予め体系化し、それにそって教育を進めていこうとするため、どちらかと言えば「大人主導的」な管理強化的な対策が導かれる(浅見氏の立場?)。
もう一方は、人間は「内発的な動機(好奇心や向上心)」を持った存在で、それらを上手く喚起できる環境を整えれば、自発的・自律的に身体活動に向かう能力を備えているとみなすもので「児童中心的」ということができる(海老原氏の立場?)。
児童中心派からすると、大人主導派は体力向上を優先して、子どもたちの関心から離れた運動を押しつけようとしているように見える。逆に、大人主導派からみると、児童中心派の教育は、放任的で無責任であり、明確な体力やスキルを身につけることにつながらないと感じている。
このような立場の違いは、それぞれが主張する体力の「姿・形」が異なっているために生じているといってよい。言い換えれば、体力というものに対する「信念や関心の対立」というべきものである。
「体力」というときに、まず第一に思い浮かぶのは、比較的形となって現れやすい筋力や持久力といった「テスト的体力」である。優劣や上下を指摘されるのはこの種の体力であり、評価基準は数量やできる/できないなどによるため測定しやすい。新体力テストで測られる体力は、まさにこの「テスト的体力」である。
第二に、測定はしにくいが重要な能力として「運動(動作)の質(スキル)」などがある。形態や筋力(パワー)などが未発達のために、「テスト的体力」はあまり高くないが、身体を合理的かつ効果的に操作する能力に長けた子どもたちも少なからずいる。そのような動きの質に着目し、それを観察によって評価していくという試みも展開されつつある。
これら二つを、身体活動や運動学習の「結果としての体力」とするならば、その前提となる「第三の体力」と考えられるものがある。「第三の体力」には、自発的な運動意欲(動機づけ)、身体や身体活動に関する知的好奇心、運動やスポーツを遂行するための計画力、集中力、持続力、さらには教え合いや話し合いの力なども含まれる。一般には、これを体力と呼ばないかもしれないが、広義の体力としては軽視できないものであろう。
本来「体力」とは、これら三つの能力が相互補完的に関わり合うものであり、ひとつひとつを切り出して簡単に評価できるものではない。また、どのような体力が必要とされるのかは時代により、文脈により異なるというのは、多くの識者の指摘するところでもある。
ボール投げが下手な現代っ子は、昔の子どもに比べてボールキックが上手いかもしれない。また、持久走の成績が低下しているというのは、単にやる気(やらされ気?)の低下が原因かもしれない。しかし、そのやる気も「第三の体力」と考えれば、看過できない問題と考えることもできなくはない。
恐らく、今の子どもたちの体力は、昔と比べて低下しているものもあれば、向上しているものもあるのだろう。さらに言えば、その総量はひょっとすると変わっていないのかもしれない。
問題は、そのような時代背景や文脈を無視した大人たちが、測りやすいテストだけに頼って評価した結果「体力が低下している、だからもっと運動させるべきだ」という短絡的な思考に陥ってしまい易いことにある。
安易に「低下だ」「危機だ」と煽ることは、保護者や教師を不安に陥れ、ひいては「二極化(下方シフト)」に棹さす可能性があることに、我々はもう少し敏感になるべきであろう。
体力問題に限らず、教育行政の「振り子」というのは、一方の考え方が強くなって行き過ぎが起こると、他方からの批判が強まって逆の方針になり、それがまたうまくいかなくなると逆に動くということをくり返してきた。
単なる揺り戻しに終わるのか、それとも「第三の道(byギデンズ)」が開けるのかの正念場である。
体力問題の解決には、「真の体力」「必要な体力」を追い求める「真理問題」としてだけでなく、多数の人の信念、関心および利益を調整する「調整問題」として捉える「三方一両損(by大岡越前守)」的視点が求められている。
「かみ合わない」「不毛」な議論といわれるが、初めからかみ合って有益な議論などほとんどない。
よい議論というのは、「何故かみ合わないのか」が次第に明らかにされ、意見の一致をみないまでも当事者の認識が深まることを指す。
換言すれば、それぞれ立場の人間が自分の主張の背後にある暗黙の認識を自覚化・相対化して、一層洗練された考え方にいたることができたなら、それはよい議論だったことになる。
子どもにとって「実りある議論」にしていくために何が大切なのか、そのことを問い続ける必要がある。