論理的思考とは?

ディベート」「ロジカルシンキング」といったキーワードの書籍が書店に並んでいる光景は、もう見飽きた感がある。
話題の本を何冊か購入したこともあるが、結局読了できたものはなかった。
理解できなかったのか…つまらなかったのか…それすらよく覚えていない。覚えているのは、その手の本を全てBOOK OFFに出してしまったということだけである。
遅ればせながら、スポーツ界からも「その手の本」が出版された。

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

著者は、日本サッカー協会JFA)の専務理事である田嶋幸三氏である。氏は90年代以降、JFAのコーチ資格を精力的に改革し、特にディベートロジカルシンキングがコーチの持つべき重要なスキルであるとして、コーチ育成講座のプログラムにもりこんできた。
その流れは、サッカー以外の多くのスポーツ種目の指導者養成にも波及している。

「そのプレーの意図は?」と訊かれたとき、監督の目を見て答えを探ろうとする日本人。一方、世界の強国では子どもでさえ自分の考えを明確に説明し、クリエイティブなプレーをしている。
日本サッカーに足りないのは自己決定力であり、その基盤となる論理力と言語力なのだ。
本書は、公認指導者ライセンスや、エリート養成機関・JFAアカデミー福島のカリキュラムで始まった「ディベート」「言語技術」といった画期的トレーニングの理論とメソッドを紹介する。
Amazonの書籍紹介より抜粋)

「自己決定力」「論理力」「言語力」「言語技術」など意味不明な単語がいっぱいである(記述者は不明)。言葉の意味や使い方は措くとして、文脈としても理解できなかったポイント(疑問)を以下に挙げる。
1)「クリエイティブなプレー」ができる選手は、プレーの意図を聞かれて回答できるのか?
2)そもそも「クリエイティブなプレー」は、言語による説明が可能なのか?(説明できないからこそ「クリエイティブ」なのではないか?)
3)「自分の考えを明確に説明」することと「クリエイティブなプレー」との間に相関関係はあるのか?
などなど…
原書を読まずにあれこれ批評するのはフェアではないし、おそらく原書は私の疑問にクリアカットに答えてくれているはずである。
よってこの続きは、ちゃんと本を読んでからにする。
といいつつ、私なりのロジカルシンキングを試みてみたい(なんだよ続くのかよ)。
ディベート」「ロジカルシンキング」といった言葉には、何とも言えない胡散臭さを感じる。
言葉そのものと言うよりは、むしろその使われ方にと言うべきかもしれない。
そもそも「論理的思考(あえて漢字で書く)」とはいったい何なのか?
論理,論理的,あるいは論理的思考という語が何を指しており,これらの語がどういう関係にあるかは,必ずしも明確ではないようだ。
「論理的思考力(書籍紹介でいうところの論理力?)」は、比較的新しい用語であり,様々な意味に解釈されていて,用いられ方も多様であることも指摘されている。
論理的に思考するというのは、簡単に言えば、今の自分の考え方を「括弧」に入れて、その機能を一旦停止させるということである(エポケー)。
「今の自分の考え方」というのは、自分にとって極々自然と思えるような思考の様式のことである。
目の前にある問題を上手く取り扱うことができない状況は、その問題解決のために「今の自分の考え方」が使い物にならないということを示唆している。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」は全く違う。
理屈っぽい人は、すべての問題をひとつの道具で解決しようとする人である。
そのつどの技術的難問に対して最も相応しい解決策を探し出すためには、身の回りにあるありとあらゆる「道具」について「それが潜在的に有している、本来の使い方とは異なる使い方」に常に配慮していなければならない。
「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは「そのつどの技術的課題に相応しい道具」とは「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えることを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力のことを「論理性」と呼ぶ(たぶん)。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にも留まらない「思考の自由」のことであろう。
さしたる論理的思考力をもたない人間に、ディベートの形式だけを表面的に学ばせたとしても、有益な成果は得られない。むしろ相手の論理のつまづきや矛盾をあげつらうだけの、応用の利かない人間を生み出す可能性すらある。
子どもにディベートロジカルシンキングを教えるのもよいが(あまりよくないけど)、教える側の母国語運用能力や論理的思考能力を磨くことが先決であろう(自戒をこめて)。
「論理的思考」とは、永遠に続く思考の道程なのである。