考え尽くした道を走る

moriyasu11232008-07-09

先週の土曜日、NHK・BSにて『スポーツ大陸考え尽くした道を走る〜ハードル 為末大〜」』が放映された。実は私も取材協力していたが、インタビュー映像は使われずに終わった…(データは無事出演)
そんなことはこの際どうでもよい。
そう思えるほど「いい」番組であった。こういう質の高い番組は、もはや民放にはほとんど期待できないだろう(中村ディレクター、お疲れ様でした)。
番組前半は、昨年の同番組で使われた映像の再録だったが、後半は大阪世界陸上から日本選手権までの撮り下ろし映像であった。
誰も到達したことのない「高み」を模索するアスリートの孤独や葛藤が、映像を通してじんわりと迫ってくる。
「(2006年の)ハードル封印に後悔はないのか?」というナンセンス(ある意味意図的?)な質問に、ロシアンルーレットを例に挙げて答えるあたりは、ホイジンガーやカイヨワが生きていたら泣いて喜ぶくだりであろう。
彼は、400mHで「遊んでいる」のである。
春先のケガでトレーニングが思うに任せない時期、「このまま終わるかもしれない」という不安と「上手くいくような気がする」という楽観を往復している様子も浮き彫りになる。
「心が折れたら終わり…」「自分だけは五輪に行かれると信じ続けよう…」「最後まで自分の勝利を信じていたのは自分だけ…」
アスリートのインタビューでは、よくみられる「言葉」である。しかし、この言葉の裏や行間にあるものに思い至らしめなければ、これらの言葉の本質に迫ることはできない。
「強く念じたこと」は実現する。巷間よく言われることである。
問題は「強く」の意味である。
「強く」は、「目を閉じ、眉間にしわを寄せ、身体を震わせながら」ということではない。いわんや高価な壺や印鑑を買うことでもない(当たり前か)。
それは「微に入り細に入り想像する」ということである。
細部を想像するには「具体的なもの」を描き出せなければならない。
アップ場やスタンドの雰囲気や匂い、トラックに手を置いたときの手触り、スタート後に視界に入る他の選手、第4コーナーをまわったときのスタンドのどよめき、ゴール後のガッツポーズなどなど…その想像には際限がない。
そして、我が身に「想像と同じこと」が起こったときに、「念じたことがかなった」ことを確信するのである。
畢竟、細部にわたって具体的に「想像」したことは、高い確率で実現することとなる。
ことの順逆を間違えてはならない。
「想像」したことが実現するのではない。「想像」していたからこそ、実現したことが「わかる」のである。
「今日は感情の勝利。明日からはまた理屈に戻る。」
インタビューの最後に、彼が発した言葉である。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」は全く違う(7月5日参照)。
「理屈っぽい人」は、ひとつの道具ですべてを解決しようとする人である。これには、何事でも立て板に水でぺらぺらと口がまわり、人の欠点を指摘することに長けたディベート人(by九州本部)も含まれる。
「論理的な人」というのは、今の自分の既知や考え方を一旦「括弧」に入れて、その機能を停止(エポケー)させることができる人のことを指す(byフッサールほか)。
彼は「理屈の人」ではなく「論理的な人」である。
「想像」や「感情」を支える「理論」があり、その「理論」を構築するための「論理」がある。
安易に解を求めず、極限まで「論理的」に「考え抜いた」からこそ、最後は「心の衝動(by為末大)」に任せて走ればよいという「理論」にまで到達できる。
言い換えれば、ほんとうに頼りになる「理論」は、極限まで考え抜かなければ沸いてこないということである。
「考え抜く」というのは、脳だけのモンダイではない。
「あり得ない力(by為末大)」を引き出すのは、全身で考え抜いてきた「経験」があればこそである。
「あり得ない力」は、メンタルトレーニングでは引き出せない。
それは、「自由に」思考する人間にのみ到来するものである。
そして、人間がその心身のパフォーマンスを最大化するのは、「自分は今、自らの宿命が導いた、いるべき時間の、いるべき場所に、いるべき人々とともにいる」という確信が得られるときなのである。
スタート前の彼は、そういう「確信」につつまれているようにも見えた。
この番組は、7月11日 22:00-22:50に再度OA(NHK総合)される。
見逃している方は、是非ご覧下さい。