メディアの使命

moriyasu11232008-05-29

昨日(28日)の日刊スポーツに、「為末の腕はメトロノーム(by佐々木一郎記者)」という記事が掲載された。
佐々木氏は、陸上競技はもとよりスポーツ全般に精通した敏腕記者である。
紙面1頁の半分近くを使った力作は、(私の拙コメントはさておき)とても読み応えがある。
記事の内容は、世界陸上で二度のメダルに輝いた為末大選手のもっている「武器」、すなわちあらゆる条件を考慮しながらハードル間のストライドやピッチを微妙かつ巧みに最適化する「技術」について、本人のコメントやデータなどを示しながら解説するというものである。
為末選手のこの「技術」がメディアで扱われるのは、恐らく初めてではあるまいか。
今日まで数多のメディアから幾度となく「為末選手の何が優れているのか?」という質問を投げかけられ、その都度「インターバルランニング(ハードル間の走り)の技術」と答えてきた(他にもあるけど)。
すると質問者は、やや困惑気味に「やっぱりハードリングじゃないんですかぁ。為末選手本人も山崎ハードル部長もそう言うんですよねぇ…」と溜息をつくのとほぼ同時に「そういうのって何かデータとかあるんですか?」という無邪気な問いをぶつけてくるのである。
全くないというのも癪なので、それらしいデータを示しつつ、その評価の「難しさ」について解説する(ときに2時間以上にも及ぶ)。
しかし、実際のオンエアでは、ハードリングのハイスピード映像とともに「ハードリング技術は世界一!」というテロップが流れて終わったりするのである。
後日、メディアの方々が、解説の拙さを猛省している私を一刀両断にするために抜く伝家の宝刀は「分かりやすさ」である。
「分かりやすい」番組を作るのが我々の使命である、と…。
もっともな話ではあるが、それではメディアの方々は一体何を基準に「視聴者の理解度」を査定しておられるのだろうか?
子ども?大人?友達?となりのおっちゃんおばちゃん?文句を言ってくるクレーマー?それとも自分自身か?
この「分かりやすさ」というキャッチフレーズの裏に、メディアがしばしば陥るピットフォールがあると思われる。
確かに、この為末選手の技術が、伝えにくいものであることはよく分かる(私もいつも困る)。
無論、この技術を評価し、かつ呈示できる科学的メルクマールが、今のところないという問題もある。
これは私の責任でもある(といちおう謝罪しておく)。
でもそれは当たり前なのである(とすぐさま開き直る)。
一流選手の中でも差別化できるような「すごさ」を、万人が一読(一聴?)のもとに理解可能なほどシンプルに説明できるはずがないのである。
難解なことを分かりやすく伝えるために最大限の努力を傾けることを否定する理由はない。
それは、我々に与えられた義務であり使命でもある。
しかしそのことと、問題そのものを簡単にしてしまうこととはまるで違う。
問題そのものを簡単にすることは、本来は未知の問いであったはずのものを、既知の問題&回答へと引き下げてしまう行為なのである。
「やっぱハードリング練習しなきゃな…」みたいなものである(それも大事ではある)。
・ ・ ・
「一流」とは、既知の枠組みや常識を超えたところ、これまでに誰も問題にしなかったところに何かを発見し、それにこだわり続ける人たちのことである。
だから「分かりにくい」のは当たり前なのである。
「分かりにくい」ことを「分かりやすく」伝えようとすれば、そこには必ず矛盾が生じる。
「矛盾」とは、「つじつまが合わない」という意味だけではない。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」の両立はあり得ないが、この「矛盾」に耐えなければ、武具は進化しない。
優れた矛の存在無くして、優れた盾は存在し得ないのである(そもそも必要ないし…)。
対立するものを、対立したまま存立させることを「術」と呼ぶ(by甲野善紀氏)。
「分かりにくい」問題の本質を切り下げることなく「分かりやすく」伝えていく「術」を編み出していくのが、メディアの真骨頂ではないのか。
そのような矛盾の超克が、メディアを「文化」として発展させてきたのではないのか。
もちろんこれは、我々受け手側の責任でもある。
我々が優れた矛(盾でもよい)にならずして、メディアが優れた盾(矛でもよい)にはなり得ないのである。