メディアの暴走

moriyasu11232008-06-03

前回エントリーからの勢い余って再びメディア論。
とあるスポーツ団体の知人から、「公平・公正」「不偏不党」を標榜する某公共放送(以下NHK)のフライング報道に関する興味深い話を聞いた。
その団体では、ある種目のオリンピック代表選手決定に関する記者発表を予定していたが、会見予定時刻の30分前にNHKのニュース速報で代表選手の名前が流れてしまい、結局、記者発表はお流れになったそうである(やる意味なし)。
当然、団体側は厳重に抗議したが、NHKサイドは言うに事欠いて「国民は知りたがっている」とその正当性を主張したという。
まさに「♪きぃ〜たぞ、わぁれらぁ〜のN・H・K〜♪(メロはウルトラマンのサビで…)」である。
あきれ果てて、開いた口がふさがらず、ものが言えない(だから書いている)。
この某公共放送の略称(つまりNHK)と「フライング」というキーワードで検索をかけると、「フライング報道」に関する情報が次々とヒットする。
精力的にやってんのね。
前回の繰り返しになるが、メディアの方々は、いったいどのようにして我々の「理解力」を考量し、誰のニーズに応えて「30分早く」報道することに尽力されているのか。
先の某スポーツ団体のM氏は、「そういう軽率な行動が、結果的にメディアバリューを損ねることになるんだぞい」と諭したらしい。
さすがはMさん、間然するところがない。
しかし、そういう安本丹(あんぽんたん)には、残念ながらMさんの極めて常識的なロジックも通じないのだろう。
『ジャーナリズムの情理―新聞人・青木彰の遺産』の著者である高知新聞依光隆明社会部長は、「半日や一日早いだけの特ダネは特ダネではない。本当に目指すべき真の特ダネとは『書かなければ表に出てこないこと』である」という至極当然の指摘をしつつ、昨今のスクープ合戦の風潮に警鐘を鳴らしている。
とはいえ、五輪代表発表のフライングなどは、まだかわいい?ものである(迷惑だけど…)。
一年近く前になるが、北九州の病院の看護師で病棟課長の女性が、入院患者の高齢者4人のつめをはがす虐待を行っていたというショッキングな事件が報道された。
当の看護師は「自然に取れた。水虫の処置のつもりでやった」と供述し虐待を否定していたが、病院側は傷害容疑で刑事告発した上で懲戒解雇にした。この看護師は、その後傷害容疑で逮捕、起訴される。
ところが、この事件は意外な展開を見せる。
日本看護協会が、事件現場の看護仲間や病院関係者から情報を収集してこの事件を調査した結果、この看護師が行った行為は虐待ではなく、お年寄りなどに多く見られる白癬菌などによる「肥厚爪」を整えて清潔に保つという看護実践から得られたケアの一貫だったというのである。
彼女の行為を見た「肥厚爪」の知識のない病院スタッフが内部告発し、病院側が慌てて拙速な謝罪会見を行ったというわけである(病院側も相当問題だが、今回はメディア論ということで…)。
そして、「つめはがし」「老人虐待」「看護ノイローゼ」といった言葉が一人歩きする。
一人歩きと言っても、最初に歩かせるのはメディアである(その歩行を継続させるのは受け手である我々…)。
あるテレビ番組では、どこぞの記者が「事件の再発防止策に具体的なものがない」と病院側に詰め寄るというシーンが映し出されていた。
「正義の鉄槌」を振り下ろしているメディアと、おろおろと責任回避しようとしている病院責任者という構図である。
この光景は、もううんざりするほど見せられてきた(JR福知山線脱線事故、食品疑惑の記者会見などなど…)
確かに、つめははがされ、脱線事故は起こり、食品表示は偽装された。しかし、それらは唐突に、不義の人々によって、悪を行うために引き起こされたという単純な問題ではないだろう。正義の問責を行った記者も、どこかでこの事件に加担しているかもしれない。そのような想像力なしに、このような事故や事件の本質的な解決に向けた処方箋など書けるはずがない。
この看護師の行為の妥当性や正当性は、第三者にはわからないし、仮に判決が出たとしてもわからないままだろう。にもかかわらず、メディアは、さしたる取材もないままに極悪非道の虐待看護師という「物語」を作り上げてしまった。
「正義」というものの危うさを象徴する顛末である。
人間も人間の作り出す社会も、善と悪で二分できるような単純なものではないことは誰でも知っているはずである。にもかかわらず、善悪、正邪でしかものごとを判断できないのもまた人間である。
正義の記者は、自分たちが虐待というおぞましい出来事の外部に存在していると考えているのだろう。そうでなければ、もっと丁寧に「加害者」に取材しただろうし、悪の芽を摘むなどという「正義の言葉」は吐かなかったはずである。
さらに言えば、この記者は、本当に「正義」のために病院を指弾したのだろうか。あるいはもっとべつの、自らの欲望の赴くところにたまたま正義が転がっていたというのは言い過ぎだろうか(先のフライング記者は、局内では表彰の対象になるらしい)。
人間とは、誰も自身の欲望と無縁ではいられないだろうし、同時にこの欲望それ自体は、正義や悪とは無関係の次元に存在する。
彼らに足りないのは、自分が逆の立場にあったとき、果たしてどのような状況に陥る可能性(危険性)があるのかということへのイマジネーションである。
ひとりの人間の行動の前には、いくつもの選択肢が広がっている。そして、その善悪は、事後的に判定されるより他ない。
この順逆を間違えてはならない。
ひとつの結果から原因へ遡行して悪を摘出しようとする限り(要するに悪者探し)、我々はこの記者が陥ったのと同じ落とし穴に嵌ってしまうのである。