第21回日本スプリント学会大会(その2)

moriyasu11232010-09-20

第21回日本スプリント学会大会(その1)のつづき…
平成国際大学の監督として大学生(女子)を中心に指導している清田浩伸氏は、中学、高校で数々の指導実績を残しながらも、自分の元を巣立った選手がそれ以降に活躍できなかったことを反省し「将来を見据えた指導」というコーチングスタイルに転換していくプロセスについて振り返った。
そしてそこには、指導者個人のレベルではハンドリング困難な様々な要因(指導者の評価基準や選手の推薦入学など)によって構造化された「システム」というハードルが存在しているということも吐露されていた。
これに関連して、為末氏から「教育や恩義を重んじる日本のスポーツ風土が、選手の変化を妨げている」という指摘もあったが、これは指導者に内面化されているコンセプトが所謂「支援」ではなく「指導」になりがちな日本スポーツ界の「構造」を言い当てたものといえるだろう。
もちろん、日本のトップアスリートやトップレベルの指導者は、その弊害についても十分に理解しているし、そもそもそうでなければその高みに達することはできないはずである。
しかしながら、ユース&ジュニアはシニアに比べて競技レベルが低いこと、体力要素を中心とするリソースの発育・発達段階にあること、さらには促成栽培的な「指導」によって短期的な成果をあげ易い(あげなければならない)ことから、結果的にその“指導”スタイルを変えるに至らないというところだろうか。
唐突だが「中学からシニアまでトップを維持していく秘訣」というシンポジウムのタイトルに、私たちが意識していないある種の誤謬が含まれている可能性について考えてみたい。
本来、ユースからシニアまでの長期にわたる競技活動を見通すのであれば、時々の競技レベル(到達度)の査定には「絶対基準」が用いられるべきである。
陸上競技の場合、チームスポーツや対人スポーツとは異なり「記録」という絶対的な評価基準がある。
今年の日本男子100mを例に取れば、江里口匡史選手(10.16秒)を頂点とする「大きな山」が現前し、その山の頂と自分の位置との高低(記録)差は小学生でも計算することができる。
しかし実際には、発育・発達段階を考慮した「小さな山」、すなわち「(歴年齢等による)相対評価」を用いるのが常であり、特に日本では多くの競技種目において年齢(学校期)別に「トップ(日本一など)」を決めるという慣習がある。
したがって、「トップ(頂点)」とは、その語義からすればシニアのトップ以外にはあり得ないのだが、その時々の「小さな山」をいち早く登りつめた人間にも「トップ」の称号が与えられているのが現状である。
もちろん、このような慣習が陸上競技(スポーツ)の普及に一定の貢献を果たしていることは言を俟たないが、物事には必ずメリットとデメリットが混在していることもまた然りである。
10年以上前のことになるが、当時イギリス陸連普及委員長であったリチャード・フィッシャー氏の講演を拝聴したことがある。
フィッシャー氏は、イギリス陸連が10年以上にわたる代表レベル選手のヒストリー研究を行い、U13、U15、U17、U20時の記録を可能な限り集めて、その最低ライン(記録)をクリアした選手すべてを強化指定選手として認定していることを紹介していた…という記憶がある(その信憑性は小生のリスニング能力に依存している)。
そのコンセプトを具現化したと思われるようなサイトがある。
その名も「power of 10(raising the standard)」。
このサイトは、イギリス陸連(UKA)Mccain track&field clubが共同運営している、イギリス国内選手の記録ランキングを掲載するサイトであるが、フォローしている選手の数が半端ではない。
例えば男子100mランキングは、920位タイ(11.5秒)までフォローされている。
また、年齢別カテゴリーによる抽出も可能になっており、最低年齢カテゴリーの13歳以下(U13)は534位タイ(14.2秒)までがフォローされ、Disabilityの記録も当然のように掲載されている。
ちなみに今日現在、15歳以下(U15)のランキング1位はAlex Kiwomya選手(10.98秒)である。
すべてのカテゴリーには、「UK 10 TARGET」という目標値が設けられており、U15では 「11.30秒(未満)」に設定されている(全日本中学選手権(全日中)の参加標準記録に同じ)。
ちなみに今日現在、イギリスでこの記録を突破している選手は7名だが、日本では8月4日(全日中前)までにすでに69名の選手がクリアしている(陸マガ9月号参照)。
さらにこのサイト、シーズンベスト記録(SB)や自己ベスト記録(PB)のみならず、掲載されている全ての選手の大会出場履歴&記録が克明に記されており、個人のブログまでがリンク可能な体裁になっているから驚きである。
これだけ網羅的に、しかも分け隔てなく数多の選手のプロフィールが掲載されていることが、多くの選手達の様々な動機づけに繋がっていることは想像に難くない。

人がスポーツ活動に向かい、自身のパフォーマンスを高めることに傾注するために「外発的動機づけ」が重要な役割を担うことは疑うべくもない。しかし、様々な報酬によって動機づけられた人間は、報酬が受け取れなくなると活動それ自体への意欲を失うことや、報酬が内発的動機づけを失わせること(アンダーマイニング現象)などは、多くの心理学的研究でも指摘されているところである。
多くの心理学的研究を引くまでもなく、人は多くの欲望や関心が総合的に関わり合って「動機づけ」られており、「外発・内発」という二分法でクリアカットできるほど事は単純ではない。
しかし、究極的には、スポーツ活動それ自体が報酬となり内発的に動機づけられていくこと、すなわち自ら工夫し、新しいことや困難なことに全力で挑戦し、自らのパフォーマンスをより高めていくという「遊び」としてのスポーツの楽しさを味わう喜びに向かわせることが、子どもや愛好家のみならず、トップアスリート育成にとっても極めて重要なテーマであることは言を俟たない。
(2009年2月22日 拙稿「トップアスリートの育て方1」より抜粋)

前出のU15チャンピオン?であるKiwomya選手がこのサイトを眺めながら「(イギリスには)オレより速い奴がまだ154人もいるのか…」と大きな山の頂を遠い目で見上げつつ、往年の名スプリンターLinford Christie氏がコーチを務めるMark Lewis-Francis選手(PBは10.04秒)のU15時のPBが10.93秒であるのを発見して「なんだよオレと大して変わらないじゃないか…」とユニオン・ジャックのユニフォームを着た自分の姿を想像しているのではないか…と想像してみたくなる。

競技力のピークと身体のピーク、似たように見えるこの二つの言葉には大きな違いがある。スポーツの世界では、考察する力、発揮する能力を早く手に入れたとしても、それを早熟型とは言わない。(…)早熟型が大成しにくい原因は、人より早く身体能力が発達し競技力が高いレベルに達してしまうことで周囲の環境が激変し、結果的に考察力、発揮能力が成長しにくいことにある。(…)早熟型というものをよく理解し、身体能力以外の部分の向上を目指すなら、そのピークの高さにおいてはどのタイプであれ変わらないと考えている。
(「為末大かく語りき」月刊陸上競技(2005年9月号)より抜粋)

大事なことは、「中学歴代10傑選手がシニアのトップレベルに至っていない」と嘆くことでも、「早熟の選手は伸びない」と決めつけることでもない。
そうではなく、中学卒業後に彼らの優れた素質(タレント)を最大限に引き出すための「将来を見すえた指導(by清田氏)」、すなわち「自律性」と「有能感」に支えられながら競技を継続する環境が選手達に与えられているか(いたか)どうかを問うべきなのである。
「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統(す)ぶる意志の大いなる力がいる、これは勇気である。(by大隈重信)」
人間的な「成熟」の指標は、様々な仕方でセットされ、様々な機会を通じて吟味されなければならない。
「成熟」への第一歩は、「その意味や有用性がよく理解できないことや、とりあえず<正しい>と言われていることを黙って学習する」ことにある。
もちろんそれは、あくまでも「第一歩」であり、そこにとどまるべきものではない。
次の一歩(第二歩)は、「その意味や有用性がよく理解できないことや、とりあえず<正しい>と言われていることについて、納得できなければやらない」という「意志力」を身にまとう段階になる。
人間のパフォーマンスは、このヘビの脱皮のごとき「受容」と「反発」を繰り返しながら波状的に高まっていくが、それを支えるのは「自らの生き方を選び取る意志(勇気)」である。
「最も強い種(者)が生き残るのではなく、最も賢い種(者)が生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できる種(者)である(byダーウィン)」
日本陸連強化委員長の高野進氏が、中学時代のPBが12.12秒でシニア時代のPBが11.39秒の吉田香織氏に発したという「今年の全中チャンピオン(11.61秒)が(吉田氏と)同じだけ伸びたら10秒台だな…」というつぶやきは、「早熟型というものをよく理解し、身体能力以外の部分の向上を目指すなら、そのピークの高さにおいてはどのタイプであれ変わらない(by為末大)」という意味において、十分にその可能性を帯びたものとなる。

社会的弱者でも自尊感情を維持しているひとたちはたくさんいます。
自尊感情と成功は必ずしも同期しないとぼくは思います。
逆に言えば、社会的「成功」者とみなされながら、自尊感情が低い人もたくさんいます。彼らは「成功が足りない」と思っているので、他人に対して、不要に屈辱感を与えようとしたり、過剰な奉仕を求めたりして、「自尊感情の不足分」を補おうとします。
このような人間を作り出すことには社会的に何の意味もないと僕は思います。
それよりは、自尊感情というのはどのように構造化されているのか、どうすれば、「十分な自尊感情をもっている」人たちをつくりだすか、という問いに知的資源を割く方が合理的ではないでしょうか。
最終的に自尊感情を形成するのは「私にはあなたが必要だ」という他者からの懇請の言葉に尽くされると思います。
(2010年9月14日 内田樹氏ブログ「成功について」より抜粋)

日本のスポーツ界が、ユース&ジュニア期の指導者の献身的な努力によって支えられていることは、まぎれもない事実である。
もちろん、現在の「システム」には少なからず問題点が内包されているし、その欠陥をあげつらうことは、それほど難しいことではないだろう。
しかしこの「システム」は、時々の必然性に応じて時間をかけて「構造化」されてきたものであり、一足飛びに全てのシステムを停止させたり、入れ替えたりすることは不可能である。
さらに言えば、部分的に不調なだけのシステムを抜本的に変革することは、しばしば害をもたらすものである。
より大きな大会での好成績は「成功」といって差し支えないだろうが、それが直ちに、そして継続的な自尊感情に繋がるかといえば必ずしもそうとは限らない。
得るものがあれば、必ず失うものがある。
メダルの数をカウントすることに腐心することよりも(それも大事だけど)、「アスリートの自尊感情というのはどのように構造化されているのか?」「どうすれば十分な自尊感情をもったアスリートを育成できるのか?」という問いに知的資源を割く方が合理的ではないだろうか。
power of 10」には、「私(達)にはあなた(方)が必要だ」というイギリス陸連のメッセージが埋め込まれており、それが多くのアスリートの自尊感情の形成に寄与していると思われるのである。