喜界島ふたたび

moriyasu11232010-02-01

1月27〜30日まで、喜界島へ二度目の訪島。
前回は、日本では46年ぶりとなる皆既日食前に訪島するも、「日食までおったら?」という島の皆様のお言葉に後ろ髪を引かれつつその5日前に離島(む、無念じゃ…)。
帰京後の報道をみる限り、結果的に一番良好な観察スポットは、この喜界島だったようである(次回は2035年…生きてるかな…)。
喜界島(喜界町)は、鹿児島県大島郡に属する、奄美諸島の南西部、東経130度線上に位置する。
島は、隆起性のサンゴ礁を起源とする石灰岩に覆われているが、ハブが生息していないため海岸付近の草むらを分け入り、こんな写真も撮影できたりする。

特産のサトウキビからつくる黒糖焼酎は、いまや全国の酒屋や居酒屋でお目にかかることができる(もちろん堪能…)。

もともと野球が盛んな土地柄のようだが、昨年のドラフト会議で埼玉西武ライオンズから2位指名を受けた第一工大の美沢将選手は、走攻守の三拍子そろった期待の選手で、当然のことながら島のヒーローになっている(母校の喜界高正門前には横断幕)。
ちなみに1位指名は、言わずとしれたこの選手(つーことはほとんど1位指名みたいなもんだぞ美沢君ちばりょー!)。
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今回の訪島では、2日間で5つの小学校および教育委員会を訪問。
それぞれの学校の校長、教頭および体育主任の先生方から、子どもの体力・運動能力に関する現状や独自の取り組み、地域、家庭との連携などについて、また指導主事の先生からは、行政の立場でどのようなマネジメントを行っているかについてヒアリングさせていただく(通算12時間…)。
夜は、毎晩「飲みかた」にて歓待を受ける(鹿児島では「飲み会」のことを「のみかた」「のんかた」と呼ぶ)。
ヒアリングでも飲みかたでも話題に出たが、島の子ども達はとにかく外でよく遊ぶそうである。
子ども達は、玄関からランドセルを投げ込むと同時に外遊びに出るという雰囲気であり、携帯ゲームなどに興じている姿はほとんど見かけないという。
ひとつだけ学習塾もあるらしいが、小学生で通っている子はいないとのこと(中学生が数名とか…)。
ここで見落としてはならないのは、けして島の子ども達の学力が低いわけではないということである(県下でも上位とのこと)。
少人数学級が多いため、個別指導が行き届いていることも一因と考えられるが、下校後から夕飯まで外で遊びまくっている子ども達の学力が、手厚い個別指導を売り文句にする都会の学習塾に足繁く通っている子ども達と同等またはそれ以上に高いとすれば、そればかりが理由とも言えまい。
我が国の初等中等教育が、長らく「同学齢集団内での相対的優位」を偏差値なるもので示し、それを高くすることに公私にわたる多くの教育資源を投じてきた結果、我が国の子どもの学力は下がり続けている(と言われている)。
所属する集団内部での「閉じた競争」に子どもを追いやることに、教育的な意味はほとんど(≠全く)ないと言っても過言ではない。
言われてみれば、島には「つながり格差」といった雰囲気は微塵もない。
教育は、今一度その原点に立ち返り、子どもを「成熟」させるために何が必要かを真摯に問うべきであろう。
閑話休題
一面にサトウキビ畑が広がり、信号もひとつしかなく、島民の人柄も温厚で穏やかな雰囲気が漂う一周30km強のこの島には、実は中世以来、周辺勢力からの支配の歴史がある。
1446年には琉球王国の攻略を受けその支配下に入り、1609年には薩摩藩の攻略を受けて直轄領となる。
ヒアリング時に、島民の気質は一様ではなく、集落によって大きく異なるという興味深い話を聞いたが、薩摩藩が施したとされる「(集落を6つに分ける)間切り」という形態での統治がその起源になるのかもしれない。
1871年廃藩置県によって鹿児島県に属するも、大戦後の1946年には周辺の奄美諸島とともにアメリカの軍政下に入る。
1953年、ようやく日本へと復帰する。
離島日の朝、朝食前にホテル前から空港臨海公園、スギラビーチへと続く散歩道にでる(冒頭写真は散歩道より撮影)。
太平洋戦争末期、この島は知覧から出撃する特攻機の中継地点となっており、この散歩道周辺は沖縄戦に向かう特攻隊員が最期に飛び立った場所のようである。
特攻花

特攻花

夜明け前に出撃する若い隊員に、地元の娘たちが野花を贈る。
「花も一緒に散っていくのは忍びない…」との思いからか、ある隊員は空から花を落とし、また別の隊員は滑走路にそっと花を置いて死地へと向かう。
その花の種が風に舞い、60年以上が経過した今日でも飛行場跡に咲き続けている。
島の人々は、この天人菊(てんにんぎく)のことを「特攻花」と呼び、平和を願う花として大切にしているそうである。
離陸に向けてけたたましく回るプロペラ音を聞いたとき、ふと特攻隊員のことが頭をもたげて思わず目頭が熱くなる。
ひと仕事を終えて、心地よい疲労感とともに我が家へと向かう身には、愛する家族を守るために死を覚悟して飛び立っていった特攻隊員のほんとうの心持ちを想像することなどできはしない。
合掌。
喜界島の皆様、ありがとうございました。