職人と呼ばれたい

moriyasu11232008-10-08

先のエントリーで、為末大選手が私のことを「タイム職人」と呼んでくれたことが嬉しいと書いた(羨ましいというコメントも頂戴した)。
その後、折に触れて「なぜ自分はそう思ったのか?」についてつらつらと考えていた。
「何故そう思うのかを問う」のは、どうやら哲学の基本らしい。
「思う」は既知、「考える」は未知ということだろう。
話がそれた。
私自身、斯界では「研究者」とか「専門家」とか呼んでいただく機会もあるが、いつもどこかくすぐったいような、なんとなく落ち着かない気分になる。
「研究者」と威張れるほど研究もしてないし、「専門家」と呼ばれるほど勉強もしていないというのが大きな理由だろう。
メディアに登場する数多の「専門家」の意見を拝聴しながら、「ほんまかいな?」と突っ込みを入れている「ミイラ取り」が「ミイラ」になるのがイタイというのもあるかもしれない。
その裏には、実は「専門家」「研究者」と呼ばれる人たちの「いかがわしさ」を目の当たりにしてきた経験があるからかもしれない。
とはいえ、私が「いかがわしく」ないかと言えばそんなことは全くない(実際かなりいかがわしい)。
かといって、専門家は当てにならないと言いたいわけではない(言ってるか…)。
専門家がいらないとも言っていない(うん、言ってない)。
ただ、専門家の分析結果は、常にその専門領域に限定的であり、専門用語が届く範囲に限られるということだけは言えそうな気がする。

たとえば、「子どもの運動量はなぜ減るのか?」という問題意識に忠実になればなるほど、我々は学際的にならざるを得ない。なぜなら、「運動量の減少」という事象は、それがもたらす生理的・生化学的な適応と健康との関わりのみならず、運動から遠ざかる人間の心理や、運動を遠ざけている社会環境およびシステムを抜きにして考えることはできないからである。さらにいえば、「運動量の減少」が人間存在になにをもたらすのかについての人類学的または思想的考察も不可避である。
(拙稿「子どもの身体活動・運動に関する総合的研究の重要性」平成18年度日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『日本の子どもにおける身体活動・運動の行動目標設定と効果の検証─第1報─』より抜粋)

ここまでリーチの長い「専門領域」というのは、恐らくは存在しない。
学際的な研究領域や、学術連合などを作ろうとする動きは盛んであるが、そこでの議論は、いかに領域や団体を作り上げるかということに終始し、そこで一体何を目指すのか?という根源的な、そして最も重要な部分にまで及ぶことは稀である。
だからこそ「ひとり学際」が必要となるのであろう。
専門家がしばしば陥るピットフォールは、素人が知らない事情に通じていることや、一次資料にもあたり精緻な分析も行ってきたという経験の蓄積が、事実の説明には有効であるが、それは状況判断や未来予測に関して余人に卓越していることを意味するものではないという「自覚の欠如」である。
専門家は、その専門性ゆえにしばしば固定観念に囚われたり、知見によるバイアスによって判断を誤ることがある(自戒…)。
反対に「イマジネーション」とか「感覚」、あるいは「常識」といったようなものは、専門家とってはまことに頼りないノンエビデンスツールに過ぎないが、いわゆる“素人”は、それしかなければ、それを使いこなす「術」を学ぶのである。
「コーチの目で見た場合、引き際としては今だと思います。もう十分走ってきたし、体も使ってきた。それでも、走りたい気持ちには逆らえませんでした。(理論的にやってきた部分は)後から付け加えたものが論理的に見える能力で、本来は“衝動的”に走っていたのかな、と最近は思います。行って戻ってだな、という感じだと自分では思っています。(by為末大)」
先日参加したとある学会でも、学会の重鎮とおぼしきドクターが、学校(健康)教育の課題として「健康についての正しい知識を身につけさせること!」と何度も力説していたが、「正しい知識」が物事を解決すると考えていること、いわんや「正しい知識」というものがこの世に存在すると信じて疑わない知性には閉口した。
「専門家」を盲信してはならない。
やはり体育・スポーツ「職人」が気張らねばなるまい。