正しいとはどういうことか

8日の日記に対して、大変貴重なコメントを頂戴した(K群馬君、ありがとう)。
恐らくコメント欄では書ききれないので、稿を改めることにする。
ことは、「在る(ある)とはどういうことか?」という哲学的テーマにまで拡がる話なので、日記ごときでは全くフォローしきれないが、少しだけ「考えて」みたい。
例えば、「生きている」ことが「素晴らしい」ことか「つまらない」ことかについて議論したとする。
おそらく、自分が「素晴らしい」人生を生きていると「思っている」人と「つまらない」人生を生きていると「思っている」人、それぞれから様々な意見が出されるだろう。その間で「いろんな意見があっていいんじゃね…」などと主張する人もいるかもしれない。
議論百出…いろいろな背景や性格を持った人たちが、自分の意見が「正しい」と思って主張しあっているので当然決着はつかない。
そのとき、黙って意見を聞いていたある人(例えばT君としよう)が、意見を求められてこんな風に言ったとする。
「僕には、どうして生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことができるのかが分からない。僕には、僕が生きているということがどういうことなのかが分からない。それが分からないのに、どうして生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことができるんだろうか。」
いかにもT君が言いそうなことである(T君って誰よ)。
「素晴らしい」派も「つまらない」派も、意見は対立しているが、「生きている」ということや、それについて「自分がそう思っている」ことでは共通している。しかし両者に共通している「生きている」ということそれ自体については、どちらも考えていない。
しかしT君は、「自分ひとりにだけ正しいこと」ではなくて、「誰にとっても正しいこと」を考えようとしている。
この議論の「生きている」を「正しい(知識)」に、「素晴らしい」「つまらない」を「ある」「ない」に置き換えてみれば、「正しい(知識)」とはどういう事かについて「考える」ことの重要性が浮かび上がってくる。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」ことをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。(…)たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。
(by池田晶子氏)

先の日記には「正しい知識というものがこの世に存在すると信じて疑わない知性」と書いた。
学会の大先生が、「正しい知識」として自説を力説されることについては是非もない(そもそも学会とはそういう場である)。
しかし、それを「信じて疑わない」という知性のあり様には、違和感を覚えずにはいられなかったのである(「正しい知識」の内容もトホホだったので余計に…)。
少し矮小化されるが、例えば運動生理学の教科書を一から書き直さねばならないような「エビデンス」が続々と示されている昨今、「正しい(知識)」とはどういうことか、それはほんとうにあるのかないのかについて「考え続ける」必要があると「考える」のである(ややこしいな)。
畢竟それは、K君のいう「正しいと思うことを貫こうとする強い意志<信念>と自分が正しいと思っていることは本当に正しいかと疑ってみる作業<哲学>の両方を大事にしましょう。」ということに集約されるのではないかと「考える」のである。