リーダーシップは必要か?

moriyasu11232008-09-08

首相の辞任で、政界が慌ただしくなっている。そのいつもながらの溶解(崩壊?)状態をみるにつけ暗澹たる気持になる。
そしてこれもいつものように「政治の空白を作ってはならない」といった政界財界のコメントが紙面を踊るが、前の首相が突然辞めたときも特に大きな混乱(問題)は起こらなかった。
日本は、特に首相がいなくてもまわるくらい成熟した社会であると考えて良いのだろう。
もちろん、いなきゃ困る人もいるのだろうが…(私はほとんど困らない)
福田さんは、表情に内面が表れてしまう正直者で凡庸かつ温厚、欲望も野心も人並みはずれたところがないように見えた(あるいはそう見せていたのかも)。
ゆえに政治家には不向きであったのかもしれない(と柔道の石井も言っていた)。
本来、平凡な人間が凡庸な政策を着実に実行することこそが、民主主義、ことに今の日本の政治に期待されるものであると思う。
福田さんのような人が、嬉々として経世済民の政策を実行できたなら、日本の政治状況も少しはましなものになったのだろうが、おそらく周囲に蠢く小粒な政治家の権力欲、メリケンの圧力、手前勝手な宗教がらみの友党、側近の思惑といったものにまみれ続けることに嫌気がさしたのだろう(お坊ちゃまだし)。
歴代首相の中では、最も人間くさい顔をした身近な政治家だと密かに期待していたが、大変残念な結果に終わってしまった(お疲れ様でした)。
こういうときには、必ず「強いリーダーシップ」などというものが待望され、世論もマスコミも英雄願望を掻き立てる(書き立てる)ものである。
しかし、「英雄のいない時代は不幸だが、 英雄を必要とする時代はもっと不幸だ(byヘルベルト・ブレヒト)」ということを、人類の歴史は証明している。
「強い」リーダーシップなどという言葉を軽々に吐いてはいけない。
そもそも、リーダーシップの枕詞は「強い」だけではない。
例えば、ある集団においては、「人の話をよく聴いて合意形成できる人(例えば聖徳太子)」、別の集団では「他を顧みず独断専行できる人(例えば織田信長)」、さらに別の集団では「権謀術数に長け、子分を養うのがうまい人(例えば清水の次郎長)」がリーダーに適している。
リーダーシップというのは、「リーダー」には必須であるが、リーダー以外の人間にとっては必須ではない。そして、ふつうの人間集団ではリーダーとリーダー以外の人間では、圧倒的に「リーダー以外の人間」の方が多い。
だから、機能的かつ健全な共同体の運転のためには、リーダーシップと同じように、「サブ・リーダーシップ」「リードされまくるシップ」「何かとリーダーにいちゃもんをつけるシップ」や、「あとはオレに任せろシップ」や、「盛り上がっていきましょうシップ」や、「そんなにかりかりせんと、ここはひとつ間をとってシップ」など多種多様な「シップ」が必要である。
畢竟、リーダーを含めた多くの「シップ」のコラボレートの善し悪しが、その集団のパフォーマンスを決定するのである。
「強い」リーダーシップだけで解決する(またはハッピーになる)問題はほとんどない。
政治の行方はよく分からないが、福田さん以上に「政治家に不向きな」ひとが総理大臣になり、権謀術数、思い込みのナショナリズム、馬鹿な市場原理主義といったタームとは異なる政治で、大人の国を目指してもらいたいと強く思う(むりか…)。