野生に帰れ!?

moriyasu11232008-08-21

『五輪陸上:ジャマイカ旋風、短距離で米国から王座奪う勢い』
北京五輪の陸上短距離で、カリブ海の島国ジャマイカが強烈な存在感を示している。16日の男子百メートル決勝ではウサイン・ボルト(21)が9秒69の驚異的な世界新記録で圧勝。17日の女子百メートル決勝も、10秒78で快勝したシェリーアン・フレーザー(21)らがメダルを独占した。短距離王国として君臨してきた米国から、その座を奪う勢いだ。
秋田県ほどの広さに人口270万人が住む小国。1人当たりの国民総所得が約5000ドル(約55万円)と豊かではない。そんな国でも金をかけずにできる陸上は、国技ともいえる人気だ。小学校から授業に陸上競技が取り入れられ、1910年に始まった低年齢世代の大会で好成績を挙げると、専門的なコーチに指導を受けられるシステムがある。こうして発掘された優秀な選手が欧米の大学へ進むのが一般的だった。そして、アトランタ五輪百メートルのドノバン・べーリー(カナダ)らのように外国籍を取得し五輪の舞台で活躍していた。
しかし、最近ではジャマイカの大学生を集めた「MVP陸上クラブ」が設立され、地元の大学に残って競技に打ち込む選手が増えている。男子百メートルの元世界記録保持者のアサファ・パウエルや女子で銀メダルを獲得したシローン・シンプソンはこのクラブの所属だ。また、ボルトは「ジャマイカでは皆が短距離に関心を持って応援してくれる。気候もいいし、僕はここで強くなりたい」と言う。
他国に比べて選手同士の連帯感が強く、大会でもそろって行動したり、互いに応援し合う姿が目立つ。好調の今年は、より存在感が強い。欧州のグランプリ大会では、昨年まで米国勢が陣取っていたウォーミングアップ場の最も便利な場所を、今年はジャマイカ勢が占め、レゲエの音楽を流して雰囲気を支配する光景も見られた。勢力地図が変わる気配はすでにあった。
劣勢気味の米国は、女子百メートル決勝のレース後「トーリ・エドワーズ(米、8位)がフライングしたのにそのままレースが行われた」と抗議し、再レースを要求したが却下された。銀メダルを取ったケロン・スチュワート(24)は「そんなことしても何も変わらないのにね」と笑い飛ばす。男子が18日、女子は19日に始まる二百メートルでも、ジャマイカ旋風が吹き荒れそうな気配だ。
毎日新聞8月18日夕刊・石井朗生氏筆)

限られた字数に厳選された情報が盛り込まれていて、目の前の現象について様々な角度から考えてみたくなる記事である(さすが石井さん)。
ご案内の通り、カリブの小国ジャマイカが陸上界を席巻している。
もちろん、これまでにも名スプリンター、ハードラーを輩出しているが、今年のジャマイカは、今までのジャマイカとはちと違う(と感じる)。
その象徴が、ボルトの「9.69」である(昨日の200mもすごかったけど…)。
そして驚異的だったのは、記録だけでなく、その勝ち方である。

人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

野生人(オム・ソバージュ)が使える道具は自分の身体だけであるから、訓練の足りない現代人には考えられないようなさまざまな用途に身体を利用する。野生人が必要に駆られて獲得する体力と敏捷さをわたしたちは失っているが、それはわたしたちが知恵をそなえているからでもある。野生人が斧をもっていたら、太い枝を握ってへし折るあれほどの力をもてただろうか。投石器をもっていたら、石をあれほどの力でなげられただろうか。梯子をもっていたら、あれほど身軽に木に登ることができただろうか。馬を飼っていたら、あれほど速く走れただろうか。
(byルソー氏)

人間の進歩とは何か?について考えさせるサイドラインである。
ルソーは、人間の「不平等」の起源を論ずるにあたり、「不平等」が生まれる以前の状態というものを考想することからはじめている。そこには、身体的な差異はあっても「不平等」というものは存在していない。
個々が自分の能力に応じて捕り、満たされればそれ以上は求めることもない。
それが、野生人(オム・ソバージュ)である。
「ジャマイカでは皆が短距離に関心を持って応援してくれる。気候もいいし、僕はここで強くなりたい(byボルト)」
どこかで聞いたような言葉である。
「なぜ私が強いのか、その答えは簡単だ。私はエチオピアに住んでいて、エチオピア人だからだ」
男子マラソン世界記録保持者の皇帝ハイレ・ゲブレセラシェの言葉である。
エチオピアとジャマイカに共通するものは何か?
すぐに思い浮かぶのは、南の国でさほど豊かではないこと(2007年の国民総所得(GNI)はジャマイカが106位、エチオピアが204位)、にもかかわらずトップ選手の多くが自国に残ってトレーニングを積んでいること、そしてドーピング陽性例がほとんどでていないことなどである。
ちなみに、過去にジャマイカを出国?したベン・ジョンソン(カナダ)やリンフォード・クリスティ(イギリス)が、ドーピング違反で処分されているという事実もたいへんに興味深い。
豊かさとは何か?ということについても一考を促される。
話がそれた(そんなにそれてないけど)。
さて、他競技と100m走との違いは何だろうか?
一言でいうなら、ルソーの言う「知恵」が最も機能しない、道具として肉体だけしか使えない状態での闘いということではないだろうか(100m走における戦略の重要性を理解した上で敢えてそう書く)。
さらにボルトの記録は、これまでの100m走における歴史上の記録とは一線を画しているようにも思える。
それはこの走りが、いわゆる科学的な進歩発展の延長線上に築かれたものではないようにみえるからである(トラックもスパイクも進化しているという反論は一切受け付けない)。
振り返って、我々(先進国と呼ばれる国)の社会は、多くの知恵や道具に囲まれて、いまこの瞬間もさらなる快適さ、利便性、擬似的な強さを追求し、そのような欲望の実現に対価をつけることで社会の動力を得ようとしている。
そして、その欲望のために何を失ったのかということについては、ほとんど考量することなく、あるいは確信犯的に看過してきた。
得るものがあれば失うものもある。
我々は、おそらく獲得したものと同等の不利益をどこかで蒙っているはずなのだが、「価値」という概念を生みだしてそれをカウントしない習慣を身につけることで、あるいはそれをどこかに押しつけることで蓋をしているのかもしれない。
しかしその精算は、畢竟それを得た(と思いこんでいる)人間の仕事となる。

「からだ」の社会学―身体論から肉体論へ

「からだ」の社会学―身体論から肉体論へ

現代のスポーツは、人間特有の脱特殊化した肉体─つまり、本能行動のような特定の目的をもたない、非連続的な肉体─の活動一般をさすものである。ここで、わかりきった、つまらないことを言うようだが、「目的」は大事である。なぜなら、それが、スポーツか、どうかの分かれめになるからである。昔のことわざに言われた「火事場の馬鹿力」をウエイトリフティングとは言わず、わが子の危機におそろしいスピードで駆けつける母親の疾走をスプリントと呼ばないのは、前者には、みな、実際の目的があるからである。スポーツには、比較行動学的な意味の目的がない。だから、逆にそれは、すでに言ったように、どんな目的とも結びつく。
(池井望「第1章 生物学と人類学からみたスポーツ」)

カリブの小国からやってきた彼の走りを見て、このほとんど何の役にも立たない「走る」という行為とその能力に改めて心を揺さぶられた。
スタート前のボルトは、このオリンピックという「天下一大運動会(byぶんちゃん)」を心から愉しんでいるようにみえた。
そして、米国の抗議を一笑に付した「そんなことをしても何も変わらないのにね」というスチュワートの言葉には、「もう一度走ったとしても結果は同じ」という新王国ジャマイカの自信と余裕がみなぎっている。
と同時に、もし「スポーツ」の、あるいは「トレーニング」の本質にアプローチしたいなら「野生(肉体)に帰れ!」と告げられているような気もするのである。