真相・原因の究明とは?

moriyasu11232008-07-25

秋葉原の事件からまだ日も浅いさなかに、今度は八王子でも通り魔殺人が発生した。
この手の事件は、短期間にくり返されたり、過去の犯行の手口に似ているという特徴をもつ。
秋葉原の事件は、JR下関駅構内にレンタカーで突っ込み、暴走して人をはねたうえ車から降りて両手に包丁をかざして無差別に人を刺した「下関通り魔殺人」に酷似している。
当時、「下関通り魔殺人」の犯人は、その僅か3週間前に起きた「池袋通り魔殺人」を模倣したのではないかという見方が強かった。
このような犯罪は、メディアが大きく取り上げること自体が犯行目的の一部、すなわち「社会への復讐」という目的をなしていることも少なくない。
したがって、新聞やテレビがこの事件を大きく取り上げ、事件の原因やら背景やらを論じ立てた「有識者コメント」を垂れ流すこと自体が、犯行目的の成就に加担し、模倣犯の登場を促すことにも繋がる。
マスメディアはしばしば「報道の義務と権利」を主張されるが、実は方々の真の力は「報道しない権利」によって担保されていることを忘れてもらっては困るのである。
閑話休題
あるネットの書き込みで知ったが、6月10日付けの読売新聞「編集手帳」に、同社編集委員によるものと思われる「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを…」という記述があったらしい。
遺族の心情吐露であれは共感できるが、仮にそれを慮ったものであったとしても(事実そのようではあるが)、これが日本最大部数を誇る大新聞社の編集委員によって書かれたものであるという事実は看過できない。
この編集委員に「ひっそりと死ねばいい」といわれる「世の中が嫌になった」人びとの多くは、それが単独であればもはや記事にすらならないほど頻繁に、そしてひっそりと死を選択しているのである。
今回の犯行も、そのような「世の中が嫌になった」人間の「暴発」であることを忘れてはならない。
あまりテレビを観ないのでわからないが、恐らくマスメディアは、今回もまた「事件の再発防止のために真相・原因を徹底的に究明しなければ…」というストックフレーズを連呼しているはずである(by古舘伊知郎みのもんた)。
「真相や原因の究明」とは、一体何を意味しているのだろうか?
そもそも、それが含意しているものに無関心な人たちに、これらの事件を語る資格を与えてよいのだろうか?
犯人の異常性、特異な家庭環境、格差社会、派遣労働の問題、秋葉原の特殊性、バーチャルな世界で拡大した自我…いずれもが幾分かはこの事件を構成する要因といえるのだろう。
しかし、そのどれかひとつを取り出して、これが原因であるといった瞬間に、この事件の持つ最も重要な意味が霧消してしまうように思われる。
真相の究明は「審判」の役割であって、我々は「審判」ではない。
我々のなすべきことは、もっと別のところにあるものを「想像」することではないのか。
たとえば、殺されたのは友人になりえたかもしれない人たちであり、殺したのは不可解な隣人だったかもしれない人間である。
ここで「犯人の異常性」を論うことは「自分は正常である」と主張しているのと同じであり、原因が「格差社会のひずみ」にあるとするのは「自分はその格差社会に加担していない」と主張するのと同じである。
車寅次郎氏なら「それを言っちゃ〜おしめぇよぉ〜」というであろう「思考停止状態」である。
たとえば、体の具合が悪くて病院へ行き「胃潰瘍」の診断が下ったとき、より重篤な病根をも疑っていた患者は、少しだけ安心するだろう。
胃潰瘍という診断は、病根を「名指すこと」であると同時に、身体全体のシステムそのものの無事を意味している。
今回のような事件の原因を「名指すこと」の意味もこれに似ている。
「異常な犯人」という言葉には、自分も、自分たちの社会も、その犯人とは別であるという明確な線引きが含意されている。
原因究明とは、ひとつの事件を事後的に合理的に解釈し、異質なもの、異常なものを切り離して、全体を保守するための方法に過ぎない。
この考え方の前提には「身体全体のシステムは健康である」という信憑があるが、もし全身が病んでいたならば、この方法を採用することにはほとんど意味がない。
この「事件およびそれを構成したもののすべての特殊性」に目を向けるやり方の対極に、それらと自分自身の「同質性」に目を向ける方法がある。
畢竟、それは自分と犯人、自分と被害者、自分とこの社会との繋がりを「想像」することである。
もし今回の事件の中に救いがあるとすれば、それは、犯人や、格差社会や、ゲーム感覚といったものと、自分自身や自分をとりまくコミュニティや社会とを切り離して「安心」できることではなく、すべてが繋がっているにもかかわらず、かろうじて自分たちが生き残っているという「残酷な救い」なのである。
自分はあの時「たまたま」暴走するトラックを運転しておらず、「たまたま」あの駅に降り立たず、「たまたま」あの交差点を歩いていなかっただけであり、それは自ら意図して選び取った賢明な選択の結果ではないと考えるべきなのである。
もちろん、それによって何かが「解決」できるわけではない。
しかし、「そこ」が起点となり、「そこ」から考え始めなければ、およそ解決策など見いだせないことだけは確かなように思われるのである。
犯人は社会から「切断」されたと感じ、被害者はまさに唐突にこの世界から「切断」された。
我々は、この事件の真相を究明することで、再び彼らを「切断」しようとしている。
そうではなく、どうしたらもう一度、犯人と被害者と自分自身を繋ぎなおすことができるのかを考えてみる必要があると思われるのである。