子どもの身体活動量1

moriyasu11232008-06-14

現在、子どもの身体活動量に関するガイドラインを策定するという研究事業のマネジメントをしている。
この研究は、子どもにとって1日に必要な身体活動の強度と量(時間)について、様々な健康指標との関係を見据えながら検討するというものである。
巷間関心のあるテーマであることは重々承知しているが、二児の父親としては「大きなお世話」という気持ちもないではない。
いずれにせよ、飯の食い方(食育)からウエストの太さ(メタボ)、そして1日に身体を動かすべき時間についてまで、他人からとやかく言われる時代になったということである(溜息)。
2007年度の報告書によせた「あとがき」を再録する。

近年、子どもの「体力低下」の現状が「実証的(原文傍点)」に明らかにされ、問題視されている。国も「子どもの体力向上」を施策の柱のひとつに位置づけ、その流れを受けて新体力テストの全国悉皆調査が実施されることも決まった。しかし、「体力」を測定可能な基準でのみ測ることに抵抗を示し、これからの社会に求められる「体力」についての議論を抜きにした今日動向を警戒する向きもある。
いずれにせよ、何をもって「正当な体力」とするかを根源的に問わないまま今日に至っている現況は、ゆえにこの対立を解消することができず、問題はますます混迷を深めていると言わざるを得ない。
この問題は、自分が正しいと思っていることを一旦括弧に入れて、そうした確信はなぜ、どのような経験を経て構成されてきたものなのかと考える現象学的思考法によってのみ乗り越えられる可能性をもつ。この視座は、自分の確信の絶対視や、自分の信念の安易な押しつけを回避するためにも重要となる。
「体力」という言葉に関わる立場には、例えば競技力向上を目指す立場、現在の二極化した体力の不平等や階層固定化を懸念する立場、あるいは「体力=防衛体力や健康」という認識でとらえる立場など様々であり、その背後には基本的な教育観や人間観の違いも存在する。その意味で「体力」は、常にそれぞれの立場の「関心」に「相関」しながら構成されている考えることができる。
この「関心相関性」は、例えば「真の体力」とは何かという問い自体を相対化し、様々な立場で考える価値の錯綜を論理的に解きほぐすための原理的視点となる可能性をもつ。この原理を基軸にすることで、それぞれの「エビデンス」に対する一方的な批判や、その「相対性」をあげつらうニヒリズムに陥るのではなく、個々の立場が提示する「体力論」の論拠となる「関心」の妥当性を問い合い、「共通了解」を拡げようとする方向に議論を向かわせることができると考えられる。
このような「関心」を比較的「私的」なものとして考える場合には、それ自体の妥当性を問う必要はあまりない。「体力」を「公的」なものとして考えるからこそ、この関心から構成された理論が向上(または低下)させるであろう「体力」への関心それ自体の妥当性を問う必要が生じるのである。
本プロジェクトでは、量的、質的なアプローチを駆使しながら、今の子ども達に必要な身体活動量について「どう考えるか」ということを絶えず問いながら、「どのくらいにするか」というガイドラインに落とし込むことを目指している。立場の異なるメンバーが繰り広げる議論には、そのエビデンスを引き出すに至った関心の妥当性を問いつつ、共通了解を広げることを指向する実践的なまなざしがある。
科学研究は、あくまでも真理の追求ではなく「同一性(構造)」を記述するものであると考えれば、質的、量的いずれの研究にしても、「子どもの体力低下」という現象をうまく説明し、それを回避するために必要と考えられる身体活動量を設定するための構造(プロセス)を明らかすることが目的であると考えればよい。
様々な信念対立を巧みに回避しつつ、質的・量的エビデンスに基づく理論や方法論を駆使し、科学性を担保することを可能とする原理的な理論を構築することが求められている。
次年度は、プロジェクトの最終年度となる。立場の違いを超えた「共通了解」を得るためには、得られた成果をどのように伝えるかといった有効なキャンペーンの方略を探っていくことなども必要になるだろう。
しかし、本質的な問題にアプローチし続けることなくして、キャンペーンの成果は上がらないことを、肝に銘じておく必要がある。
(拙稿「子どもの体力問題に関する信念対立の超克 ─「質的」および「量的」研究からのアプローチ─」平成19年度日本体育協会スポーツ医・科学研究報告『日本の子どもにおける身体活動・運動の行動目標設定と効果の検証─第2報─』より抜粋)

はてさて、どのようにまとめるべきか…