[書評]人間の器量

moriyasu11232008-05-23

勝海舟は、晩年赤坂(氷川神社近く)に寓居を構えていた。
幕末から明治維新にかけての多くを見聞し、かつ隠居の身で好き勝手に喋れるのは勝しかいなかったため、彼のもとには連日多くの取材者達が訪れ、その談話を聞き書きしたのが下記である。

氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)

なかでも人物論が興味深い。
勝は「大人物というのは百年に一人現れたらいいほうで、いまの時世からするとあと二百年か三百年のちになるだろうよ」という見識であり容易に人物批評をしない。
そのなかで「いままでに天下で恐ろしい人物がいるものだ」と感じたのが横井小楠西郷隆盛であるという。
小楠は他人には悟られない人物で臨機応変で凝滞がなく、西郷の胆識と誠意は破格の大きさであるという。
それに比べると、藤田東湖などは国をおもう丹心もなく、木戸孝允は綿密なだけで人物は小さく、小栗上野介は計略には富んでいたものの度量が狭く、榎本武揚大鳥圭介はムキになるだけの連中だ…という具合に維新の英傑達がことごとくこき下ろされている(批評してるじゃん…)。
水戸在住時代に「水戸学」にインスパイアーされた者としては、小栗や榎本、大鳥のごときはともかく、藤田東湖先生に対する評には「異議あり!」と挙手したい気持ちもないではない。
しかし、勝が最も畏れたという西郷その人が、最も尊敬する人物として橋本左内とともに藤田東湖先生を挙げており、人の評価などというものは、それこそ見ようによるものだ、とも思う。
巷間、日本人の「器が小さく」なったといわれる。
政治家も、官僚も、財界人も、知識人も、況やスポーツ界も、スマートでクレバーな人材は少なくないが、総じて「器が小さい」という印象は否めないと(自分棚上)。
だが、偉そうにそう宣う(私を含めた)諸兄は、いったい何を基準に人間の「器」を査定しているのであろうか。
氷川清話には、有名なくだりがある。
「坂本(龍馬)が薩摩から帰ってきていうには『なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう』といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」
この一文から、西郷、勝、坂本という「器量人」の器量人たる所以を窺い知ることができる。
坂本は、西郷について「この男の器量は、対峙する人間の器量に相関する」という卓見を述べ、それを聴いた勝は坂本が西郷を「大きく叩いた」ことを察知し、さらにこの評言によって坂本が勝を「叩いている」ことを瞬時に理解したのである。
この僅かな対話のうちに、維新三傑の器量の相互評価が定まるという、大変スリリングなやりとりである。
坂本がいうように、人間の「器」というのは、単体で存在するものではない。
なにしろ「器」にはコンテンツがない(「いれもの」だから)。
楽器も、文字通り「器」である。
ストラディバリウスなどの優れた楽器は扱うのが難しいといわれるが、それは卓越した技量をもつ奏者の呼びかけに、相応の音色で応じられる楽器のみが「名器」と呼ばれるからである。
他者からのあらゆる呼びかけに対して、それにふさわしい音質、音量で答えられる応答性のことを、かつて人々は「器」といったのではないか。
私たちが失ったのは、「器の大きい人」ではなく「器」という概念そのものなのかもしれない。
ともあれ「器」の大小を知るためには、とりあえず目の前のそれを叩いてみるよりほかなく、そのときに聞こえた音は「自分の器」を表していることになるのである。
畢竟、誰かの器が「小さい」と感じたら、それは自分の「器が小さい」という可能性大であるという身も蓋もない結論に至るのである(自戒)。