トレーニングリテラシー

moriyasu11232008-02-07

日本陸連の中距離合同合宿で一席ぶって欲しいとのご依頼を受けて、富士通陸上部の検見川寮まで小旅行。新検見川の駅に降り立ち、原宿を出るときに首から取ったマフラーをおもむろに鞄から取り出す。
寒い。
迎えに来てくれた後輩(実業団陸上部コーチ)に聞くと、都内とは気温が2〜3度違うのではないかとのこと。確かに、数日前に降った雪の残り方が、都内や自宅の周辺とは少し違う。
研修会は、小さな会議室に選手20名とコーチ2名(そして私)がひしめき合うなかで行われた。
1500mの日本記録保持者を筆頭に、日本のトップレベルの選手達が集まっている。こういう小さな箱(バンド用語)で、選手やコーチ達と突っ込んだ議論をするのはとても楽しい。
例によって乳酸の話から脳の話まで、怪しい占星術師よろしく、壮大なスペキュレーションを語ってしまった(すまん)。
そのなかで、「我々は、例えば世界一流選手のトレーニングに関する情報などについて、本質に迫るようなかたちで理解しようとしているだろうか」という問いをなげかける。
「情報」と「情報化」というのはまるで違っていて、「情報化」とはすなわち「なまもの」をパッケージして「情報」にする作業のことである、とはかの養老孟司氏のご指摘である。
例えば、スーパーに並べられたお肉を眺めながら、豚肉は100グラム200円、牛肉で100グラム400円・・・さてどうすべ?というような比較をしているとき、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業のことは考えない。
つまり、トレーに値札を貼られて陳列されたものが「情報」なわけであるが、それが「情報化」されたプロセスのことを考える習慣は、私たちにはあまりない。むしろ情報化プロセスのことをできるだけ考えないようにしている(めんどくさいから)。
同様に、スポーツのトレーニングに関しても、トレーニング負荷(強度、時間、頻度など)やどんな環境(場所や機器など)を使ったかといった「情報」はすぐに知れるが、そのトレーニングをどのような意図で、どのような感覚で、どのような意識で行ったのか、といった「情報化プロセス」にはあまり目を向けないようにしている(時間かかるし)。
しかし、情報の本質というのは「情報と情報化の階層差」にこそあるのではないだろうか。
メディアリテラシー」が「文脈への敏感さ」であるとすれば、「トレーニング文脈への敏感さ」は、差し詰め「トレーニンリテラシー」とでも言うべきか。
科学的データ(情報)も、その情報化プロセスと付け合わせてはじめて意味を帯びてくる。そのような情報を自身の腑に落とそうとするとき、最終的な拠り所となるのは自身の身体である。
「情報と情報化の階層差」を見逃さないために自身の感覚(身体知)を錬磨すること、そのことこそがトレーニングの本質である。
というような話をすればよかった(したような気もする)。
終了後、富士通の監督さんやコーチの方も交えて、温かい鳥鍋を囲んだ陸上談義に興じる(ここでは紹介できないようなレアな情報もゲット)。
関係者の皆さん、ありがとうございました。是非また呼んで下さい。