学会ってなんだっけ?

水曜日から土曜日まで、日本体力医学会で大分に滞在。
風邪気味だったので温泉に入りまくった(でも治らなかった…)。
豊後牛と麦焼酎を堪能した(地ビール飲むの忘れた…)。
これで、9月9日から日本インカレを挟んで続いた「学会週間」の幕が閉じた。
学会と言えば、テクニカルタームが飛び交うコミュニケーションが基本である。つまりそれを知っている人しか議論に参加できないという仕組みである。
学会よ、お前はそれでいいのか?(いいのかも)
我々は、様々な「現象」を自分なりの興味関心に基づいて「切りとる」が、その解釈においては既知の範囲で了解せざるを得ない。
それを「理論」という。
理論がなければ、思考は始まらない。
しかし、より重要なことは「理論は常に書き換えられなければならない」ということである。
理論を書き換えるためには、自分の既知を疑わなければならない。
そして、新たな知の枠組みを構成すべく、既知を解体しなければならない。
フッサールはそれを「現象学的還元」と呼んだ(たぶん)。

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)

赤ん坊の頃から知っている従妹が結婚するという。
私はおふくろに尋ねる。
「で、相手はどんな人なの?」
おふくろは心得ている。
慶應の経済を出て、なんだか商事だとかいった会社でなんだかをやっている人らしいわよ」
なるほど。慶應の経済か。
私はわかった気になっている。
おい。
何がわかったんだ?
わからない。
幸せって、何だろう。
わからない。
(by小田嶋隆氏)

僅か数行の間に、それぞれに機能を異にする多くの「私」が登場する。
「内省」というのは、「私」と発語した瞬間に、「今『私』と口走ったこの語り手は一体誰だ?」という問いを自制できない知性の暴走である(by内田樹氏)。
自然科学の領域でも、それは必要なことであると感じるが、残念ながらそのような発表をしている演者にはお目にかかれなかった(当たり前か)。