学ぶ・考える・やってみる(その1)

moriyasu11232012-09-06

一昨日から昨日まで、院生時代に所属した研究室(Lasbim)のY先輩がコーチを務める小平奈緒選手&信州大学スピードスケートチームが、本日出発するカルガリー合宿前恒例の体力測定のために来室。
小平選手は、2010年バンクーバー五輪で日本代表最多の4種目に出場し、個人2種目で5位入賞、団体追い抜きでは銀メダルを獲得しているが、以下の連載記事では「スケート部がない長野・伊那西高から、国立の信州大学に進むという、異色の経歴を持つスケーター(by冨重圭以子氏)」と紹介されている。
先のエントリーでも触れたが、彼らのようなアスリートに「異色・異端」という枕詞をつけたくなる我々の「まなざし」はどこから到来するのか。
この点についてはラディカルに問われる必要があるだろう。

◇大学でつかんだ理論
信州大学スケート部の新入生は、入学から1カ月間、長野市にある教育学部キャンパスの一角で座学にいそしむ。同学部教授を務めるスケート部の結城匡啓(まさひろ)監督(45)による講義が連日行われる。通称「結城理論勉強会」だ。
速く滑るにはどういう動きが適切か、なぜなのか、その動きができるようになるには、どこの筋力が必要で、その筋力を鍛えるトレーニングとは−−。筑波大でスポーツ科学を学び、スピードスケートの選手としても活躍した結城監督が構築した理論が、部員に一気に注入される。
5年前、1年生だった小平は、初めて勉強会に出たとき「これだ」と思った。そして、すぐに決断した。「自分のスケートを一度真っ白にして、新しいスケーティングにしようと思った。時間はかかっても、変えたかった」。結城監督も、その時の小平の強い視線を覚えている。「系統だった理論を学びたい、と本当に思っているんだな」と感じた。
小平は中学時代に信州大スケート部の練習を偶然に見たことで、信州大を志した。「がむしゃらにメニューをこなすのではなく、目指していることが見えてくるようなチームだった」。将来は教師になりたいという夢も、この大学なら実現可能で一石二鳥だった。(…)
国立大学には、スポーツ選手の特別扱いはない。1年生時は松本キャンパスで授業を受けたので、練習は長野にある屋内リンク「エムウェーブ」まで1時間以上かけて通うか、浅間温泉にある屋外リンクで行うしかなかった。3年生のときには教員免許取得のため、母校の茅野北部中に1カ月間の教育実習に赴き、練習時間の減少は避けられなかった。しかし後悔はないばかりか「全部プラスになった」と言い切る。
「たとえば」と小平は言う。子供にスポーツを教えることをテーマにした授業で、スポーツの苦手な子供の動きのまねができると良い指導者になる、と教わった。「苦手な人の動きのまねができるなら、上手な人の動きもまねできるはず。今度スケートでやってみよう」。授業中も頭のどこかでスケートのことを考え、思いついたプランを書き込んだから、ノートは真っ黒になった。
4年生で取り組んだ卒論も、時間はとられたが、面白いうえに役に立った。テーマは「女子千メートルでの世界一流選手のカーブワークの動作解析」。3年生の3月に、長野で世界距離別選手権が開かれた。結城研究室の大学院生が高速ビデオでレースを撮影するというので、自分も出場する女子千メートルの撮影も依頼した。上位20人の映像をパソコンに取り込み、動きを分析した。(…)4年生の夏、日本代表のカルガリー合宿での小平の滑りを見て、結城監督は驚いた。カーブの入り口での体の使い方が抜群にうまくなり、速いラップで長く滑れるようになっていた。
スケート関係者の中には「小平が大学に行かなければ、トリノ五輪に出場し、2度目のバンクーバーでは個人種目でもメダルを取れた」という声がある。しかし小平は「大学回り道」説を、きっぱり否定する。「大学の4年間がなかったら、いまの自分のスケートはありません」。自分が考えて決断した道は正しい、という確信が、揺らぐことはない。
(2010年4月27日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/1」より抜粋)

( -_-).。oO(今年47歳かY先輩は…)
「結城理論勉強会」は、コーチの中に確信として現れている「理論」を選手達と共有することにより、相互のコミュニケーションを成り立たせるための礎(言語)を築くことが目的であるといえる。

動画やパノラマ写真を見ても、選手には、そこに内在する技術、すなわち、どこをどのようにすればよいのか、という知識(暗黙知)が理解できない。そこで、(…)「カーブでは、身体の真横の方向に押すことが重要であるが、実際には進行方向は時々刻々と左方向に変化しているため、望ましい局面で真横に押すためには、予め押す方向をやや前方向にするとうまくいく」という、『方向の先取り』という技術(暗黙知)を提示する。このことが理解できるようになると、選手は、最初はただ眺めているだけであった動画やパノラマ写真から、方向が先取りされているかについて観ることができるようになる。
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

アスリートやコーチは,「事実=現実の世界で実際に観測されている事象」をもとに立論された「仮説=頭の中で考えられた検証される前の理論」に依拠しながらトレーニングを実践していくが,この「仮説」の妥当性が日々の実践のなかで繰り返し検証されることを通して「理論=実証された事象間の関連」が構築されていく。
換言すれば,確固たる「事実」の裏づけがあり,かつこの「理論」に基づいて「事実」が起きていると多くの人に(または自分の中に)確信として現れたものが「(科学的)理論」ということになる。

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

「技術カルテ」というのを、どの選手ともやりとりしています。運動指導の理論の中には、「他者観察」と「自己観察」という言葉がありまして(…)「自己観察」の力をいかにつけるかがたぶんポイントで、そこに言語能力が密接に関係していると思うのです。(…)言語能力というのはたぶん、言葉の意味を知っているかということではなく、身体の知識としての自分の感覚を、自分の中で再現性のあるものとして書けるかどうかと私は解釈しています。(…)「技術カルテ以外にも、「技術討論会」といって、例えば小平選手であれば、メダルを取る前の段階で、ビデオを見て自分がどういうふうになっているか、去年意識していたこと、今年意識していたこと、大学四年生の時に意識していたこと、社会人一年目で意識していたことを資料化させます。これは。「技術討論会」という練習メニューの一つです。(部員)全員で共有しようということで。理論が先にあると言葉が一緒なので話し合いになります。
(by結城匡啓氏)

さらにこの「理論」は,それを“信じつつも疑う”こと,すなわち一端「構築」した理論を再び「解体」することの矛盾に引き裂かれながら「再構築し続ける」ことによってのみ洗練化が可能となる。
この「理論」を「再構築し続ける」という作業は、すなわち「理論と実践の往復運動」にほかならない。
「理論」を共有することによって選手達の「理論と実践の往復運動」が駆動し、そのプロセスに関わることでコーチの「理論と実践の往復運動」がさらに深化していくのである。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流になった。陽明学というのは何かといえば、『知行合一』。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。しかしこれは、『知ったことが出力されないと意味が無い』という意味だと思います。これが『文武両道』の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並行していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
(by養老孟司氏)

「学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない」を一歩進めれば、「学んだことと行動とが互いに影響しあえばこそ、高いパフォーマンスに行き着くことができる」となるだろうか。
前出の書籍&論文においては、一連の座学による勉強会も「練習メニューのひとつ(by結城コーチ)」であることが盛んに強調されているが、これは「知行合一(文武両道)」を目指した重要なトレーニングとして位置づけられていることの現れといえるだろう。

◇父と二人三脚、原点に
2月のバンクーバー五輪小平奈緒の両親、安彦さん(55)と光子さん(54)は、スタンドで3人姉妹の末っ子を応援した。2人とも海外は初めて。最後の種目、女子団体追い抜きで表彰台に立った娘の姿を目に焼き付け、幸せを感じた。
安彦さんが一番印象に残っているのは、日本選手団鈴木恵一・総監督にかけられた言葉だ。「小平は五百メートル2本、千メートル、千五百メートル、パシュート(団体追い抜き)の3レース、全部で7本もこなした。多分、世界中でたった一人しかいませんよ」。我が子ながら、すごい、と改めて思った瞬間だった。
小平の人生最初のコーチは、スケートの選手経験など全くない会社員の安彦さんだった。小学校のクラブでスケートを始めていた姉たちを、近所にできた茅野国スケートリンクで練習させようとした時、当時3歳の小平を置いていくわけにもいかず、連れていったのが始まりだった。リンクサイドにスケート靴をはかされたまま放っておかれた小平は、いつの間にか氷上に立って、リンクを1周していたという。
小学校では姉たちの後を追うようにスケートクラブに入り、姉たちよりも熱中した。末娘のために、安彦さんはサポートを考えた。「ゴルフやテニスには初心者用の指導書があるのですが、スケートにはなかった。仕方がないから、地元の茅野や岡谷で実業団の大会が開かれると、奈緒と一緒に見に行きました」
たまたま茅野のリンクで受付をしていた光子さんは、日本代表クラスの選手が大会前に練習に来ると、電話で連絡したりもした。「白幡(圭史)さんが来たよ」。母の電話で、父子は急いでリンクに行った。「練習やレースをじっと観察して『こんな練習をしていた』とか『足をこう動かしていた』とか、2人でよく話しました」と安彦さん。
試行錯誤で、間違った指導だったかもしれない、と父は首をひねるが、小平は「私のスケートの原点は父です」と感謝している。「見て、考えて、やってみる、というサイクルを教えてくれたのが、父ですから」
小学5年のとき、小平のスケートへの熱中度を一気に増す出来事が起きた。地元・長野で開催された98年の冬季五輪だ。小平は五百メートルで金メダルを取った清水宏保と、銅メダルの岡崎朋美のビデオをテープがすり切れるほど見た。中学2年のころ、本当にテープが切れてがっかりした。
五輪後の両選手の特集番組も欠かさずチェックして録画した。ある番組で岡崎が階段ダッシュのトレーニングをしていると、見終わった後、自分も近所の坂を駆け上がる練習をした。「ただただ、速くなりたかった。岡崎さんみたいにきつい練習をしたら、速くなる、と思っていた」
小学校に入ったころから「将来はオリンピック選手になりたい」と口にしていたが、「『ウルトラマンになりたい』と言うのと同じ感覚だった」と笑う。だが長野という土地で、五輪の空気を体で感じたことで、五輪選手という夢を、本気で考え始めた。
(2010年4月28日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/2」より抜粋)

( -_-).。oO(長野五輪のとき小5だったのか小平選手は…)
スケートの選手経験がない父とその娘という師弟関係が織りなす試行錯誤は、ごく自然に「見て、考えて、やってみる」という「学び」のサイクルを起動させ、地元開催の五輪が「なりたい自己(オリンピック選手)」を強烈に意識させ、「なれる自己」すなわち自分の中に眠っている可能性をさらに拡げたいという思いが、積極的に新しいことを学びたいという意欲へと繋がっていく。

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人が何かに動機づけられるとはどういうことなのか(…)そのとき、行動が自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかという区別が大変重要である。自律ということばは、もともと自治を意味している。自律的であることは、自己と一致した行動をすることを意味する。(…)確かな自分から発した行動なので、それは偽りのない自分(authentic)である。統制されているときはそれとは対照的に、圧力をかけられて行動していることを意味する。統制されているとき、その行動を受け入れているとは感じられない。そういう行動は自己の表現ではない。なぜなら、統制に自己が従属しているからである。まさに疎外された状態だと言ってよい。
(byデシ氏)

スケートに対する好奇心や興味(面白さ)に促され、自律性と有能感がともに高められた状態の小平選手のコーチングは、実の父親から「スケートの技術を教えていることにひかれた(by小平選手)」という新谷純夫氏に引き継がれることになる。

◇停滞期は無理しない
長野県を貫く中央アルプスの最高峰、木曽駒ケ岳の東に位置する宮田村に、ジュニア向けスケート教室「宮田スケートクラブ」はある。中学生になった小平奈緒は、新谷純夫(しんや・すみお)さん(60)が指導する、このクラブの門をたたいた。新谷さんはバンクーバー五輪に出場した新谷志保美の父だ。
「強い選手がいると聞いて、父とクラブの練習を見に行ったら、新谷先生がこうしろ、ああしろ、と厳しく指導していた。やってみたいな、と思った。スケートの技術を教えていることにひかれた」と小平は言う。
中学のスケート部活動が終わると一目散に帰宅。夕飯をすませて車で出発。父・安彦さんか母・光子さんの運転で、茅野市の自宅から片道1時間半の峠越えドライブだ。練習後、自宅に帰り着くのは夜10時を過ぎる。この生活を3年間続けた。
宮田クラブの近くにリンクはないが、ローラースケートで技術を教え、新谷さんの自宅そばの急坂でダッシュをしたり、自宅のウエートトレーニング場に据え付けられた、自転車エルゴメーターやスライドボード、ウエート機器を使って鍛える。
滑る技術を学んだ小平は、急速に進歩した。中学1年の1シーズンで、五百メートルのタイムは5秒も短縮した。「力任せだったのが、『どうやってスケートを滑らせるか』を初めて覚えたのでしょう」と新谷さんは振り返る。
小平が中2のとき、才能は全国に知れ渡った。地元の茅野市で開催された、参加資格14歳から19歳の全日本ジュニア選手権で、高校生や大学生を押しのけ、女子スプリント部門で優勝したのだ。2月のバンクーバー五輪で、当時中学生で出場した高木美帆が話題を集めたが、小平も当時「スーパー中学生」と注目された。
ちょうどそのころ、中学の進路相談で、小平は伊那西高志望を伝えた。東海大三佐久長聖など、県内のスケート強豪校からも誘いを受けたのに、あえてスケート部のない伊那西を選んだのは「信州大受験を考えていて、進学コースがあったから」という。「強豪校だとスケートだけになっちゃいそうで」。さらに伊那西は宮田村の隣町、伊那市にある。スケート部はなくても、新谷さんの指導を受け続けられるということも背中を押した。
高校では、スケート同好会としてインターハイに出場、高3で短距離2冠を達成した。この2冠で再び脚光を浴びたが、小平は内容に納得せず、大学でスケーティングを変えることを思い立つ。そのあたりの事情を、新谷さんはこう語る。
「選手ならだれでも経験する停滞期が高1、高2で来た。停滞期に新たな技術を教えても実にならないから、体力トレを主体にした。3年の時は、いままでの財産で勝てるようアドバイスしたが、技術は教えていない。伸びしろを十分残して、結城さん(信州大監督)につないだ」
だれもが認める潜在能力を、促成栽培せずにじっくり育てる周囲の指導方法は、小平には合っていた。
(2010年4月29日 毎日新聞インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/3」より抜粋)

中2のときに高校生の吉井小百合氏を破って全日本ジュニア選手権で優勝し、高3のインターハイではスケート同好会所属で短距離2冠を達成した「異色」のスケーターのコーチングは、「伸びしろを十分残して(by新谷氏)」結城コーチに引き継がれることになる。
このバトンパスの重要なポイントは、スピードスケートに必要な「技術と体力の相補性」に関する渡し手と受け手の共通認識にあったといえるだろう。

スピードスケート滑走は、幅1mmのブレードを身に着け、空気抵抗を避けるために身体を屈曲させた姿勢で片脚で身体重心を支持し、重心を加速するように次の支持脚に重心を移動する非常に負荷の大きな運動である。そのため、獲得したいある技術を、頭では理解していても、必要な体力が備わっていなければ、その技術は達成されないのである。(…)
パフォーマンス完成期に近づくと、技術と体力を分けて考えるのではなく。技術がないから体力がつかないのか、体力がないから技術ができないのか、常に相互に関連させて考えていかねばならない。
(結城匡啓「私の考えるコーチング論:科学的コーチング実践をめざして」コーチング学研究25巻2号より抜粋)

巧みな動きやよい動きには、それを実現するための「運動技術」が内在している。
この「運動技術」は、「そのときの運動課題を達成するために生理学的エネルギー(発生エネルギー)を力学的エネルギー(出力エネルギー)に変換し,その力学的エネルギーを運動課題に応じて効果的に使うための運動経過として包括的に捉えるべきである(by阿江通良先生)」というのが「技術・体力の相補性原理(by村木征人先生)」である。

リディアードのランニング・バイブル

リディアードのランニング・バイブル

レーニングの究極のねらいは、簡単な話、自分が出場しようとしているレースをスタートからゴールまで、自分が目標としているタイムを出すために必要とするスピードで走りきるだけのスタミナをつけることである。
(byリディアード氏)

さすがはリディアード、間然するところがない。
ここでいう「スピード」はすなわち「スタミナ(持久力)」であり、つまり「スタミナ」は「スピード」でもあり…(以下略)そして「スピード」と「スタミナ」を接続(融合)させるのは「技術」である。

(選手が「技術カルテ」に書いた言葉が分からないことはないのか?という問いに対して)それはないです。それは、その学生がどうして信州大学に来たのかにとても関係があって、小平選手の場合は、私にノウハウがあることをわかっていて入学してきました。(…)彼女の場合は、結城理論は乾いたところに水が入っていくように吸収していきました。(…)だから、信州大学に来て欲しい選手は、気持ちがあって、特にやる気だけがある子でいいんです。やる気があって、まっさらな選手のほうが怪我もしていないしいいのですと高校の先生方に話します。
(前掲書『わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ』より抜粋)

高校3年時に新谷氏の「理論」によって技術的な要素に踏み込んでいれば、恐らく一時的なパフォーマンスは高まったはずである。
しかし、中長期的な「技術と体力の最適化」を念頭においたときには、「停滞期に新たな技術を教えても実にならないから、体力トレを主体にした(by新谷氏)」という炯眼によって「新しい技術の獲得」に向けたスムーズな移行が果たせたとみることもできるだろう。
その2へつづく