金と暇があれば賭け事!?

moriyasu11232010-07-13

相撲協会は解体的出直しを』
これでは社会の納得は得られまい。賭博問題で揺れる日本相撲協会は、大嶽親方と大関琴光喜関の角界追放などを求めた特別調査委員会の勧告を受け入れ、来月の名古屋場所を予定通り開くことを決めた。
調査委の勧告は、力士13人の休場や武蔵川理事長と親方らの謹慎も求めている。厳しい内容だが世間一般では当たり前の処分だろう。それをのむからといって、免罪符を得たように振る舞って場所開催に突き進む姿には強い疑問がわく。
協会は賭博汚染の全容解明を果たしたわけでもなく、そもそも警視庁の捜査はなお継続中だ。とてもウミを出しきったとはいえない。開催をお膳立てしたかたちの調査委の対応も含めて非難は高まろう。(…)
暴行事件に大麻騒動、横綱の不行跡と、あきれるようなトラブルを繰り返してきた大相撲だが、根強い人気がある。伝統と格式に裏打ちされた勝負の魅力、土俵の緊張感がなお失われていないからだろう。
それゆえに、相撲協会公益法人の資格を与えられ課税も優遇されている。ほかのスポーツとは違い、国が手厚く保護しているのだ。NHKが年に6回の本場所を長時間にわたり中継するのも、たんなる興行ではないという前提に立っている。(…)
いま問われているのは公益法人として特別扱いを受けるのが妥当な組織かどうかである。賭博を通して反社会勢力にむしばまれていたという事実は、あまりにも深刻だ。
力士出身者が要職を占める協会の体制は、もはや行き詰まっている。執行部を総入れ替えし、外部の人材で組織を一からつくり直す解体的出直しをするしかない。公益法人の資格が不可欠かどうか、その過程で突っ込んだ議論が求められよう。
(2010年6月30日 日本経済新聞「社説」より抜粋)

「世論」、すなわち「大衆の気分」を意識した「社説」の定型である。
「執行部を総入れ替えし、外部の人材で組織を一からつくり直す解体的出直し」などという念仏(というのも憚られるが…)は、いわゆる「思考停止」以外の何物でもない。

大衆意識を測るツールの一つに「世論調査」がある。
この調査は、戦後すぐに新聞社によって始められたとされているが、当初は現在のような単なる「大衆の気分」を意味する「(popular sentimentとしての)世論」を吸い上げるものではなく、「(public opinionとしての)輿論」を知るための手段と考えられていたようである。(…)
しかし、今や「輿論」は「世論」に取って代わられ、マスメディアがそのコントロールに一役買う時代となっている。
その結果、衆愚政治を回避するための間接民主主義という「代議制」本来の意味と機能は失われ、たとえ長期的には重要であっても短期的に不人気になるような政策の実行が困難になり、いわば大衆の俗情に媚びた決定を繰り返すという直接民主制的なポピュリズム政治に成り下がっている。
(2009年8月10日 拙稿「大学体育会の危機!?」より抜粋)

相撲協会、そしてマスメディアにも巣くう「構造的な問題」を解決に向かわせるのは容易ではない。
例えて言うならば、スポーツ選手が一度身につけた技術の解体&再構築を行うときような、「そういう風に動いてしまう自分」を許容ながらも「そういう風に動いていたことを忘れてしまった自分」を追求するという「矛盾」をはらんだ弁証法的な「創発」が必要となるのである。

『芸能的な由緒正しさの終幕(小沢昭一氏)』
僕が子供のころ、ひいきの力士がおりました。(…)縁があって、千秋楽の晩、その力士がいる東京・両国の相撲部屋の宴席へ母親と寄せてもらいました。(…)
その席で、美男力士の後援会長、名古屋の大きな遊郭の女将さんでしたが、こう言うんです。「関取、大髻(おおたぶさ)を崩して汚い格好で勝ってもだめだよ。負けてもいいから、様子よくやっておくれよ」と。
〽相撲は負けてもけがさえなけりゃ 晩に私が負けてやる
有名な相撲甚句ですが、宴席には、そんな色っぽい雰囲気も漂っていて、相撲は強いだけがいいってもんでもないらしい、と子供心に感じたものです。
神事からから始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは見せ物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
明治になりますと、断髪令でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。(…)そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓たたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。(…)どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。(…)
昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。
しかし、文部科学省の管轄下にあるんじゃ仕方ありませんか。これでまた一歩、大相撲もクリーンとやらの仲間入りか。寂しいなぁ。
(2010年7月7日 朝日新聞オピニオン「大相撲は何に負けたのか」より抜粋)

「〽相撲は負けてもけがさえなけりゃ 晩に私が負けてやる」
(´-`).。oO(言われてみたい…)
いずれにせよ、小沢氏も寂しがっているように、“お上”の管轄下にあっては、力士達も「品格とフェアネス」を兼ね備えたロールモデルであることが求められるということか。
しかし、親方一人と現役大関を追放して事を収めようとする「クリーンで開かれた体質への改善を目指す相撲協会」、そして名古屋場所の中継を取りやめた「善良な視聴者のためのNHK」という構図は、どうにも釈然としない。

フェアネスの裏と表

フェアネスの裏と表

  • 作者: ハンスレンク,グンター・A.ピルツ,Hans Lenk,Gunter A. Pilz,片岡暁夫,深沢浩洋,笛木寛,関根正美,窪田奈希左
  • 出版社/メーカー: 不昧堂出版
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
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フェアプレイは、「うわべを飾るかのごとく一様にスポーツを染める」正当化の決まり文句に堕してしまったように思われる。スポーツのイメージがスキャンダルで汚されるやいなや、また、そうなってはじめて、責任ある立場の役員達はスポーツの名誉回復を気にかけるのである。(…)フェアネスを宣伝的に訴求しながら、その一方でフェアネスの問題を個人に帰するこのような手段は一石二鳥といえる。一方では、アンフェアな行為の構造的諸条件と組織的強制がその視野に入らないため、役員達自身の責任から目をそらせることが出来、他方、「清潔でフェアな」スポーツというイメージを外へ向かって売り込むこと、少なくともスポーツを清潔で信頼が置けるように、またそれによってスポンサーを引きつけ続けるためにあらゆる努力を払うスポーツ組織というイメージを売り込むこともできる。罪と罰はスポーツマンに与えられる。競技者は、スケープゴートである。
(byレンク氏)

野球賭博の容疑で逮捕された落語家の月亭可朝氏は、取調官に「お上のやってる競馬や競輪はよくて、野球賭博はどうしていけないのか?」と聞いたという。取調官は「野球賭博暴力団の資金源になるから」と回答し、「そら、負けて賭金を取られた場合でっしゃろ。わしは勝っとるから暴力団から吸い上げとる。表賞してほしいくらいのもんや」と切り返したという逸話?がある(オチが効いている)。
大変素朴だが、実にラディカルな問いである。
いわゆる「違法行為」は、規制すればするほどアングラに潜るというのが常である。
それは、国が「法」で規制しようとする対象は、すべからく人間の本質的な欲望に関わるものだからである。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

カイヨワは、「遊び」を「自由な」「隔離された」「未確定の」「非生産的」「規則のある」「虚構の」という6つの性質を持った「活動」と定義し、全ての「遊び」を「アゴン(競争)」「アレア(偶然)」「ミミクリ(模擬)」「イリンクス(眩暈)」の4つに分類した。
そして、さらにこの分類を「パイディア(遊技)」と「ルドゥス(闘技)」という対立軸に置く。
前者は「気晴らし」「即興」「無邪気な発散」という方向性であり、後者は「努力」「忍耐」「技」「器用」という方向性である。
日頃「アゴン(競争)」「ルドゥス(闘技)」に身を置く力士達が、気晴らし(憂さ晴らし?)としてその対極にある「アレア(偶然)」「パイディア(遊技)」を志向するというのは、むしろ自然の成り行きとも言える。
だから暴力団と遊ぶのもやむを得ない、と言いたいわけではもちろんない。
・ ・ ・
両国出身の母親の実家は、東京大空襲で全焼するまで、当時としては珍しいタクシー会社を経営していた。
当然、顔なじみの力士や行司なども出入りしていたようで、もし焼け出されなければ「いまごろ関取と結婚して裕福な生活を送っていたかもしれない(が私はいない…)」と遠い目をして言われたことがある(力士とは結婚したくなかったとも言っていた)。
とはいえ、当時の幕下力士は、冬の寒空でも浴衣一枚で震えながら外でチャンコ鍋を作っていたというから、関取といえども今ほど裕福ではなかったはずである。
現在の力士の給料は、序ノ口は1場所約7万円の「本場所手当」しかもらえないが、十両に昇進すると月給は約100万円。幕内になると約130万円で、大関に昇進すると230万円以上に跳ね上がる。
そして「仕事」はといえば、本場所6場所で3ヶ月、巡業の期間を除いたとしても1年の半分は暇を持てあましていると言えなくもない(失礼)。
したがって、角界野球賭博が蔓延しているとすれば、その原因は「金と暇」があり余っていることにある。
衣食住が満たされ、なおかつ余暇があれば、自ずと「遊び」に興じるというのは、先史以来の人間のハビトゥスである。
そして、力士達の「道楽心」を巧みにくすぐり余剰金をピンハネしようとするのもまた、暴力団ハビトゥスであるといえる。
そのような組織体制を「常識外れ」と非難することは簡単だが、それだけでは事が収まらないのが現実である。

大相撲の野球賭博問題に同情の余地はない。これまで重ねてきた不祥事の数々を考えてみても、いかに相撲界が腐敗していたかが分かる。(…)ただし、今回の一連の騒動で見逃せないポイントもある。国家権力の介入が以前にも増して強まっている点だ。
日本相撲協会に外部理事が入ってきたのは、時津風部屋の力士暴行事件で当時の時津風親方(元小結・双津竜)らが逮捕された後の2008年9月のことで、監督官庁である文部科学省からの指導によるものだった。今回の賭博問題では、その外部理事らを中心に特別調査委員会が構成され、謹慎となった武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)に代わって、村山弘義・元東京高検検事長が理事長代行の座に就いた。また、協会の改革を議論する「ガバナンスの整備に関する独立委員会」も外部の有識者で発足させることが決まった。
理事長代行を外部の人が務めることには相撲界の強い抵抗があり、放駒親方(元大関・魁傑)を推す声が出ていた。しかし、その動きを報道で知った外部理事が理事会で激怒して親方衆を黙らせたという。
相撲界が自浄能力を失っているのは分かる。だが、「外部」の人が最後は「内部」のトップに就任するという異常事態を見ると、ここまで国家権力が介入するのはやりすぎではないか、と私は思う。というのも、ここ数年、スポーツ界に対する文科省の介入度合いが非常に頻繁になっていると感じるからだ。(…)
どの競技団体も今、政府が進める公益法人制度改革の中で「公益」の2文字を得ようと必死だ。これまでは財団法人や社団法人というだけで公益性があると認められてきたが、制度改革(移行期間は08年12月から5年以内)により、公益性があると認められれば「公益財団法人」や「公益社団法人」、そうでない場合は「一般財団法人」や「一般社団法人」と分けられる。その違いは、簡単にいって税金の支払いにある。公益法人なら、法人税所得税などあらゆる税の優遇措置が受けられるのだ。それらは競技団体の財政に直結する。だが、公益性の審査は厳しく、マイナー競技の団体からは「一般法人でもいいのではないか」という声も聞かれるほどだ。
組織が解体されていく日本相撲協会を見ていると、公益性を理由に"お上"に押さえつけられたという印象は拭えない。こうなる前に、なぜ自らの力で改革に着手できなかったのか。スポーツ界のことはスポーツ界で解決するという「自主の精神」を失えば、他の競技団体もいずれは相撲界のように、「自力航行」できなくなるだろう。スポーツ界の自治と国家権力の関係を考えさせられる問題だ。
(2010年7月9日 スポーツアドバンテージ「権力介入で「自力航行」できなくなった相撲界(滝口隆司氏)」より抜粋)

確かに、昨今のスポーツ界における“お上”の権限は増すばかりである。
だが、それはお上が一方的に強制してくるものではなく、それをスポーツの側も望んでいるという「共犯関係?」にあるから話はややこしい。
ところで、滝口氏のコラムにもあった、武蔵川理事長に代わって理事長代行となった村山弘義氏は、かつて東京高検の検事長を務めた、いわゆる大物「ヤメ検(一般に検事→弁護士、広義には検事を退職した人を指す)」だそうである。

知り合いの某業界紙記者に言わせると、「いわくつき、札付きのヤメ検だ」と容赦ない。裏社会との「手打ち」に適材だというのである。(…)
おそらくその記者が言いたいのは、外見上ガバナンスのききそうな陣容を協会の表に押し出して、ヤクザとの腐れ縁をきっぱり断ち切ったように見せかけるのが、協会と特別調査委の暗黙の了解事項であるということだろう。(…)
さて、その村山氏の話である。2000年4月、東京高検検事長を最後に退官し弁護士となったが、直後の6月27日、リキッドオーディオ・ジャパン社の顧問に、元東京地検特捜部長、河上和雄氏とともに就任した。
リキッドオーディオ社は1999年12月22日、東証マザーズに上場したが、かねてから大神田社長や一部株主と暴力団関係者との交際が週刊誌などで報道されていた。
村山、河上両氏を顧問に迎えたのは、そうした疑惑のカムフラージュという側面があったとみられる。(…)
弁護士としてリキッドオーディオ社の顧問となり、さまざまな法的対応に追われた村山氏が、かつてのエリート検事らしい「辣腕ぶり」を発揮したことは想像に難くない。(…)
社会のオモテとウラを縦横無尽に行き来できるのが弁護士という職業だろう。とくに検察の内部事情に精通しているヤメ検弁護士は裏社会からのニーズが高い。
(2010年6月29日 永田町異聞「相撲協会が元東京高検検事長を必要とする理由」より抜粋)

角界暴力団の腐れ縁、世間やお上からのバッシングのマネジメント(先送り)という難題に、裏社会に通じた法律と調停のスペシャリストをあてるというのは、この手の問題のソリューションとしての常套手段である。
まさに「毒を以て毒を制す」といったところか。

数学を使わない数学の講義

数学を使わない数学の講義

日本には科学的精神がないということは、今までずっと述べてきたとおりだが、そのため日本人は、先にも触れたとおり討論・議論というものができない。近代社会においては、科学が知識の規範なのだから、人々の意見も科学を基にして構成されなくてはならない。したがって、欧米デモクラシーの考え方においては、「これは私の意見です」といった場合、当然、「科学とは仮説である」という立場を踏まえており、「私の意見は一つの仮説にすぎません」という意味を持っている。そしてまた、当然、「あなたの意見も仮説にすぎません」ということになる。(…)
ところが日本では、意見が実体化されてしまい、その人の人格と不可分になってしまう。したがって、その意見が否定されたとなれば、その人の人格まで否定されることになるのだから、ひとたび討論が始まれば、絶対に負けるわけにはいかない。だから、そういうのはお互いにしんどいから、討論は最初からやめてしまおうという土壌が根づいたわけである。
(by小室直樹氏)

相撲とは、「神事」「伝統芸能」「呪術」「儀礼」「格闘」「スポーツ」「ショー」という「部分」であると同時にその「全体」でもある。
ことほどさように多様な芸事である相撲は、すぐれて「日本的なもの」だと言える。
しかし、「相撲」のもつ人類学的な「意味」について「科学的な思考」をベースに語る人間は、終ぞ現れなかった。
相撲協会は、世論やメディア報道に一喜一憂するのではなく、国技たる相撲の「不易流行」について科学的に問う必要がある。